妙法蓮華経 信解品第四

信と解
 この品の表題である〈信解〉の、〈解〉というのは理解ということで、りくつから推していって「なるほどそうだ」と頭のなかで割りきることをいい、〈信〉というのはその理解がすっかり心に定着して「そのとおりだ」とすこしも疑わなくなった状態をいいます。

 ふつう学問とか、技術とか、その他実生活上のさまざまな知識などは、まず理解し、それを正しく(理論に合ったように)実行していけばよいように考えられていますが、ただそれだけでは世のいとなみは円滑にいかないのであって、どうしても〈信〉の要素がなくてはなりません。

 早い話が、われわれが日常使っている掛け算の九九にしても、たとえば、なぜ「八九、七十二」になるかなどと、いちいち考えて計算をするわけではありません。小学生のとき教えられて理解した九九の理にもとづき、それが真実だと信じこんでいますから、なんの疑いもなく「七九、六十三」「八九、七十二」などとことばで唱えて、スラスラと計算します。真理であり、真実であるかぎり、それでいいのです。いや、それでなくてはならないのです。

 ましてや、宗教の教えになりますと、この〈信〉ということが絶対の要素となってくるのです。仏教は、現代の科学とも一致する筋道の立った教えですから、まず理解することがたいせつですが、それだけでは不十分なのです。その理解が深まることによって、つよい感激が生まれ、歓喜が湧き、心の底からその教えにすがりつくような気持になってこそ、はじめて〈真実の救い〉が実現するのです。そういった心の状態を信心といい、信仰というのであって、仏教がいくら理性的な教えだからといっても、やはりそれを信仰し信心するところまでいかなければ、その真価は発揮されないのです。

 さて、《譬諭品第三》の説法によって、舎利弗につづいて完全な信解にたっしたお弟子たちができました。須菩提・摩訶迦旃延・摩訶迦葉・摩訶目連(まかもっけんれん)の四人です。なにを完全に信解したのかといえば、《方便品》で暗示的に説かれた、〈人間はひとしく仏性をそなえており、だれでも仏になれるのだ〉ということと、〈仏さまはさまざまな方便をもちいて教えを説かれるけれども、つまるところはすべての人びとに自分自身の仏性を自覚させ、仏の境地を悟らせてくださるという一事に帰するのだ〉ということです。

 四人は、ただ心のなかに悟ったばかりでなく、「このように悟りました」と、くわしくお釈迦さまのおん前に表白するのです。これがたいせつなことであって、自分の信仰体験は、ひとにむかって発表することによってますます強固なものになり、完全なものになるものです。

 この四人を代表し、摩訶迦葉がお釈迦さまにたいして行なった体験発表が、これまたたくみな譬諭によるものであり、〈長者窮子の譬え〉といって《法華経》に一つの花を添えるものであります。それは、つぎのような話です。

長者窮子の譬え
 「幼いときに父の家からさまよいいで、放浪の身となった男がありました。五十歳にもなるまで他国をさすらい、貧しい暮らしをつづけていましたが、しかし、老いの影がしのびよるにつれて、足は不思議にも父のいる場所へむかっていくのでした。
 父のほうでは、ひとり子を失ってたいへんに悲しみ、方々探しあるきましたが、どうしてもみつかりません。しかたなく、ある町に住みついていました。かぞえきれないほどの財産をもち、りっぱな邸宅に住んでいました。
 息子は、さすらいの果てに、たまたまその町へやってきて、父のやしきの前をとおりかかったのです。なにか仕事をさせてもらえないものかと、なかをうかがえば、国王かとも見えるりっぱなお方が、おおぜいの召使いにかしずかれていて、あたりの様子もたいそうおごそかです。
 その男は、なんとなくおそろしくなってきました。──とても自分などがやとってもらえる家ではない。まごまごしていると、つかまえられて無理やりはたらかされかねない、やはり自分にはここは向いていない──そう考えて、急ぎ足に立ち去ろうとしました。
 一方、父の長者としては、かたときも忘れたことのないおもかげです。門前にたたずむみすぼらしい男がまさしく自分の子であることが、ひと目でわかりました。さっそく召使いに命じて、つれてこさせようとしました。ところが、親の心を知ろうはずもない窮子は、殺されるのではないかという恐怖感から、召使いの手をふりきろうともがいたあげく、気を失ってしまいました。
 そのありさまを見ていた父は、むりにつれてくるのをやめさせました。そして、しばらく日がたってから、窮子のところへ、みすぼらしいなりをしたふたりの召使いをやり、『汚いものを掃除する仕事だが、賃金はふつうの倍もらえる口があるが、どうだ』と誘いをかけさせ、やしきのなかへ引き入ることに成功しました。長者は、自分も汚い姿となって子の警戒心を解きながら、そばに近づき、やさしいことばや励ましのことばをかけてあげ、ついに仮りの子ということにしてしまいました。
 窮子のほうは、その待遇をうれしくはおもうのですが、自分にはふさわしくないという気持はいつまでも抜けません。父は、やがていろいろな仕事をさせるようにし、ついには全財産を管理する支配人にとりたてました。窮子は忠実にはたらき、りっぱにその役を果たすのですが、それでもまだ自分はいやしい身の上だという意識は捨てきれなかったのです。
 そうしているうちに、窮子の卑屈な心もしだいしだいにうすれてきました。そこで、自分の死期の近づいたのを知った父は、国王をはじめ町のおもだった人びとを集め、『この男こそわたしの実子です。わたしの全財産はこの子のものです』と発表しました。窮子は、そのときはじめて、この大長者がほんとうの自分の父であったことを知り、父の無限の財産がそのまま自分のものであることがわかり、かぎりない喜びにひたるのでありました」

いくら仏に背を向けても
 いうまでもなく、この大長者は仏さまであり、放浪の息子は衆生のすがたです。われわれはまちがいなく仏の子であるのに、そういう尊い自分であることを自覚しないために、みずから仏の道に背を向け、苦の世界へさまよい出てしまうのです。しかし、親子のきずなは強いもので、自分が仏の子である(仏性をもっている)ことは知らずに世間をさすらいあるいていても、いつしか仏さまのおられるほうへ近づいていくのです。人間の本質(仏性)のしからしめるところといわなければなりません。そこが、いうにいわれぬありがたいところです。

 衆生は仏さまの門の前に立っても、仏さまが自分の父であるとは知らないのですが、仏さまのほうでは、あれはわが子だとちゃんと知っておられます。これもたいへん意味の深いことです。つまり、宇宙の大生命ともいうべき久遠の本仏は、いつもわれわれの心やからだの内にも外にも満ち満ちておられるのに、われわれは気づかないのです。本仏のほうでは、われわれが気づくのを待っておられるのです。真理は、つねに知られることを待っているものです。

自分の仏性を知らぬ衆生
 そのために、人間としての釈迦牟尼世尊がこの世に出られ、久遠の本仏と衆生は本来一体であるということを悟らせようとしてくださるのですが、あまりにもその教えが深遠なので、衆生たちは──とても自分のような凡夫の近寄れる境地ではない──という卑屈な考えから、かえって恐れをいだいて、その教えの門前から逃げさっていくわけです。

 そこで仏さまは、方便をつかって、衆生とおなじような姿はしているけれども、それよりすこしは機根の高いふたりの男、すなわち仏さまのおやしきの下働きでとにかく心の安定を得ているもの( 声聞と縁覚の境地を得ている人)を使いにだし──こんな人となら仲間になれそうだ──という心を起こさせ、おやしきの下働きにされました。ということは、つまり、仏さまはけっして衆生を見捨てることをなさらず、なんとかして自分自身の仏性にめざめさせようと、さまざまなてだてをもちいられるということにほかなりません。

低い段階もたいせつ
 そして、汚いところを掃除する仕事をさせました。というのは、心の迷いをとり除く修行をすすめられたということです。仏さまは、そういった修行によって、しだいに仏の教えに親しませてから、「おまえをわたしの子にしよう」といって、仏さまとおなじ悟りの境地へ引き上げようとされるのですが、まだまだ子どものほうでは、仏の悟りなどは自分とはまったく関係のない、段ちがいの境地だとおもいこみ、低い境地に甘んじながら、長いあいだコツコツと修行をつづけたわけです。これも、けっして見のがしてはならぬだいじなことで、仏の境地を悟れるような機根は、やはりそのような修行の連続によってこそ得られるのだという教えなのです。

 そうしているうちに、衆生も仏の教えにひろく通じるようになり、しだいに心の自由自在を得るようになってきました。そこで、支配人にとりたてて、教えの蔵のことをすっかりお任せになるわけです。

 しかし、衆生のほうでは、仏さまの教えをひとに伝えるようなたいせつな仕事をしながらも、まだ自分が仏さまの実子であるなどとは夢にもおもいません。すなわち、自分の本質は仏さまとおなじだなどということはすこしも知らず、いわば仏さまは主人、自分は使用人と、そのあいだにハッキリ一線を引いているのです。

みずからの仏性にめざめる
 ところが、仏さまは、ご入滅を前にして法華経を説かれ、「仏と衆生とは他人ではない。支配者と被支配者の関係ではない。もともとは一体の親子なのである。だから、だれでも仏の全財産を相続できる。すなわち、すべての人が仏とおなじ境地になれるのだ」という大宣言をなさいました。

 そこではじめて、衆生も仏の教えの真実を理解することができ、おもいがけない財宝( 仏の悟り)が確実に自分のものになるのだということがわかって、大歓喜したわけです。

自己の本質の尊さを知れ
この譬え話に教えられた精神を一言にしていえば、「自分は迷った人間だ、罪の子だなどという卑屈な考えを捨てて、仏の子であるという真実にめざめよ」ということです。すなわち、「自己の本質の尊厳さを発見せよ」ということです。そういう自覚ができますと、あまりみっともないことはできなくなります。たとえ煩悩はもとのように起こっても、それにふりまわされて失敗したり、苦しんだりすることはなくなります。欲望はまえと同様に起こっても、自然とそれをいい方向に向けて使うようになります。それだけでも、たいへんな救いなのです。