妙法蓮華経 薬草諭品第五

 《信解品第四》における摩訶迦葉の体験発表をお聞きになった釈尊は、「よろしい。迦葉よ。そなたはまことによく如来の真実の功徳を説きました」とおほめになり、仏の教えとそれを受けとる衆生の関係について、〈三草二木の譬え〉をもって、さらにわかりやすくお説きになったのが、この品です。その説法を要約しますと、つぎのとおりです。

三草二木の譬え
 「迦葉よ。まことにそなたのいうとおりです。仏の功徳は無限です。如来は、真理を知りつくし、それを自由自在に説くことによって、ありとあらゆる人びとを平等に生かし、最終的には完全円満な仏の智慧にまでみちびくのです。たとえていえば、この地上にはいろいろさまざまな草木が生いしげっています。その草木は、大きさにも大・中・小があり、性質も、すがた形も、千差万別です。しかし、すべての草木に共通していることは、ひたすら雨のうるおいを欲し求めていることです。

 そこへ、空いっぱいに大雲がひろがり、雨が降ってきました。雨は、地上にくまなく降りそそぎます。あらゆる草木を、平等に、そして豊かにうるおしてくれます。小さい草も、中くらいの草も、大きい草も、小さい木も、大きい木も、みんなそのうるおいを受けて生気をとりもどし、いきいきと生長してゆきます。

 こうして、おなじ雨が、一様にふりそそぐのですが、それでも草や木は、その種類によって生長の度合いがちがい、すがた形がちがい、咲く花がちがい、結ぶ実がちがいます。迦葉よ。如来は、空全体をおおう大雲のようなものです。如来の説く教えは、地上にくまなく降りそそぐ雨のようなものです。一切衆生は、大・中・小さまざまの草木のようなものです。

 如来の説く教えは、この宇宙の真理です。真理というものは、その根本においてはただ一つ、〈諸法実相〉ということしかありません。したがって、如来の説く教えも、降りそそぐ雨とおなじく、ただ一相一味なのです。ところが、人びとの天分や性質は、ひとりびとりがちがいます。生い立ちも、健康も、環境も、職業も、それぞれちがいます。そういうさまざまな条件のちがいがあるために、みんながひとしくもっている仏性はまったく平等であるにもかかわらず、真理の雨の受けかたにさまざまなちがいが生じてくるのです。

 しかし、いくら受けかたがちがっても、それぞれの人が真理の雨を受けて、天分の性質のまにまに生長し、それぞれの花を咲かせ、それぞれの実を結ぶという点においては、まったく平等なのです。植物は、いったい自分が大きな草なのか、中くらいの草なのか、小さな草なのか、そのようなことはすこしも知りません。知らないままに、とにもかくにも、自分のもって生まれた性質をすくすくと伸ばしていくのです。

 人間も、仏の目から見れば、この草や木と似たようなものです。自分の現在の境地が、いったいどの程度のものであるか? この宇宙のなかにおいて、自分はどれほどの価値をもっているのか? それを正確に知りうる人はありますまい。知りうるのは、ただ仏のみです。仏は、すべての人びとの現在おかれている境界と、精神的な境地の区別を正しく見きわめ、しかもすべての人びとがその根源においてはまったく平等な存在であることを、ハッキリ知っているのです。

 そういう明らかな智慧にもとづいて、それぞれの人にふさわしい教えを説き、すべての人を人生苦から解脱させ、人間としての正しい向上の道をたどらせるのです。ですから、仏の救いにはいろいろな形があるように見えます。けれども、その根本においては、仏の教えはただ一つであり、すべての人に平等にふりそそぐものなのです。みなさんの、形のうえにあらわれた天分・性質・環境その他の条件がちがうからこそ、形のうえにあらわれた仏の教えも、そして救いも、ちがうように受けとれるのです。そこが仏法の至妙なところなのです」

本質の平等相と現象の差別相
 この譬えに教えられた表面の眼目は、〈仏法の救いの、形のうえにあらわれた差別相と、本質における平等相〉であります。しかし、現代のわれわれは、この譬えから〈人間の本質における平等相と、現象のうえの差別相と、その双方をよく認識するのが正しい智慧である〉という教えをくみとらねばなりません。

 本質における平等相の認識のみに片寄れば、世間離れのした仙人のようになってしまい、とても実生活には耐えられなくなります。かといって、現象にあらわれた差別相のみにとらわれれば、優越感・劣等感によるわずらい(慢心・軽蔑・侮辱・嫉妬・憎悪・反抗等々)や、貪欲による争いや苦しみが、かぎりなく起こってきて、人間社会が救われることはありません。

 人間は、それぞれすがたはちがっても、その本質は、そのまま仏と一体なのだ……ということをしっかり認識してこそ、自分をもほんとうに生かし、他の人びとをもほんとうに生かす正しい生きかたができるわけです。これがこの品の現代的な受けとりかたであります。