妙法蓮華経 譬諭品第三

《法華経》も、この品からたいへんやさしくなります。お釈迦さまがこれまでの理論的な、哲学的な説きかたをここで一変され、譬えなどをさかんにもちいられて、一般大衆にもわかりやすい説法へと転換されるからです。

授記
 さて、《方便品第二》のご説法をうかがった舎利弗は、喜びを満面にあらわしながら、立ちあがり、「仏さま、よくわかりました。ありがとうございます。こんなにうれしいことはございません」とお礼をもうしあげました。

 なぜ舎利弗がそのように感激したかといいますと、いうまでもなく、自分も仏になれることがハッキリわかったからです。いままでは、自分はどこまでいっても声聞だとおもいこんでいました。菩薩より一段劣った修行者だと、両者のあいだにハッキリ一線を引いていました。ましてや仏さまとなると、もはや自分とはまったくかけはなれた存在のようにおもいこみ、仏になろうなどということは、大それたことだとして、考えたことさえなかったのです。

 ところが、《方便品》のご説法で、〈余剰あることなく唯一仏乗のみなり(仏道に二つも三つもあるものではない。ただひとつ、仏になる道だけである)〉とお説きになり、〈諸の菩薩を教化して 声聞の弟子なし(わたしの弟子はすべて菩薩であって、声聞の弟子というものはない)〉とおおせられ、最後に〈心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ〉とお結びになりました。それをうかがって、自分はいわば声聞という高校生だとおもっていたのが、その学校は菩薩大学の予科だったことがわかったのです。つまり、まだ高校生だとばかりおもいこんでいたのに、じつは大学生だったことがわかったのです。しかも、菩薩大学は仏になる大学だから、そこで修行を積つみさえすればかならず仏になれることが心の底にハッキリとつかめたのです。ですから大歓喜せざるをえないのです。

 そこで舎利弗は、仏さまにお礼をもうしあげるとともに、いままでの自分のいたらなさを、率直に懺悔しました。すると仏さまは、舎利弗の悟りが真実であることをおみとめになって、「そなたはかならず仏の境地にたっすることができる」という記(きべつ)をあたえられます。これが、いわゆる声聞の弟子の最初の授記です。このあとで、高弟たちがつぎつぎに授記され、ついにはすべての弟子が授記されます。ですから、〈法華経は授記経である〉という見かたをすることができるのです。すなわち、〈すべての人間は仏になることができる〉という保証をあたえられるお経だというわけです。これが法華経の一大特色なのであります。

 さて、お礼と懺悔をもうしあげた舎利弗が、「わたくしはかならず仏の悟りを成就し、無上の教えを説いて、おおくの人びとを教化いたしましょう」とお誓いし、「こうしてわたくしは目をひらくことができましたが、ほかのおおくの人たちは、あまりにも仏さまの教えが深遠なために、当惑をおぼえております。どうぞ、その人たちにもこの境地をわからせてあげてくださいませ」とお願いいたします。

 すると世尊は、つぎのような譬え話を語りはじめられるのです。いわゆる〈三車火宅の譬え〉です。

三車火宅の譬え
 「ある国のある町に、大きな長者がありました。その家やしきは広大なものでしたけれども、門はごく狭いのがひとつしかありませんでした。しかも、家はたいへん荒れはてていました。
 その家がとつぜん火事になりました。火はみるみる燃えひろがりました。家のなかには長者の子どもたちがおおぜいいるのです。外にいた長者がおどろいてひきかえしてきてみると、子どもたちは夢中で遊びたわむれているではありませんか。
 火に焼かれそうになっているのに、いっこうに気づかず、したがって、逃げだそうという気も起こさない様子なのです。長者はそれを見て、一瞬考えました。──自分には大力があるから、なにか箱のようなものにみんなを乗せて、一気に外へ押し出して救おうか──。しかし、すぐ考えなおしました。──待てよ、それでは、こぼれ落ちたものは焼け死しんでしまう。やはり、火のおそろしいことを知らせて、自分から外へ出るようにしむけるのが第一だ──。
 そこで長者は、大声で『このままでは焼け死んでしまうぞ。早く外へ出なさい』と教えてあげましたが、子どもたちは長者の顔をチラリチラリと見るだけで、問題にしません。そのとき長者は、ふと、子どもたちがいつも車を欲しがっていたのをおもいだしましたので、『おまえたちの好きな、羊のひく車や、鹿のひく車や、牛のひく車が門の外にあるぞ。欲しいのをあげるから、早くいってとりなさい』と叫びました。
 子どもたちは、そのことばを聞くと正気にかえって、それいけとばかり、われ先に走りだし、燃えさかる家から出ることができました。父の長者は、みんなが怪我なく脱出したのを見て、やっと安心しました。子どもたちは父のすがたを見ると、口々に約束の車をせがみます。すると父の長者は、子どもたちが欲しがっていた車ではなく、大きな白牛の引く、しかもおおくの宝ものに飾られたすばらしい車を、みんなにひとしくあたえたのでありました」

 この譬え話にこめられた意味は、すでにおわかりのこととおもいますが、念のためかんたんに説明すれば、父の長者はいうまでもなく仏さまです。子どもたちはわれわれ凡夫、荒れはてた家というのは現実の人間社会、火事はわれわれの煩悩をさしています。人生苦は煩悩が原因です。物質・肉体などにすっかりとらわれて、精神の自由自在を失っているから苦しいのです。しかも、おろかな衆生は、自分の精神に自由自在さがないことにさえ気がつきません。そのため、煩悩の火に焼かれようとしていることがわからず、ただ日々の生活に心をうばわれているのです。

 そうした人間の不幸を救うために、お釈迦さまはいろいろな教えをお説きになりました。人間にはいろいろな型があって、救いの道をたどるにも、いい教えを一心に聞いて迷いを去ろうとつとめる声聞型の人もあり、自分ひとりで瞑想・思索して道をきりひらこうとする縁覚型の人もあり、また、至上の悟りを求めると同時に大衆の救済運動に挺身しようとする菩薩型の人もあります。人びとは、お釈迦さまの教えのなかに自分の傾向にピッタリしたものがあれば、しらずしらずのうちにその教えにひきこまれてゆきます。それぞれ子どもが、欲しい車をもらおうとして、ひとりでに門の外へ走り出たというのは、こういう意味です。

仏の教えはただ一つ
 ですから、仏さまの教えは最終的にはただひとつ〈仏になる道〉しかないのですけれども、その予備段階として、さまざまな〈方便の教え〉をお説きになるわけです。人びとは、それぞれの教えにしたがってけんめいに人格向上の努力をするのですが、その修行がだんだん高まってきますと、それぞれの道がずっとむこうではひとつになっているのを発見するのです。それがすなわち〈仏になる道〉にほかなりません。そこで、いままで自分の歩んできた道は二流三流の道だとばかりおもいこんでいたのが、じつはすべて最高真実の道にそのままつづいていることがわかり、大きな安心と、希望と、歓喜をおぼえるのです。羊車・鹿車・牛車をもらえるとばかりおもっていた子どもたちが、大白牛車という最高の車( 仏になる道)を、みんなひとしくあたえられて驚喜したというのは、このことをいってあるわけです。

 この譬え話を、いわゆる眼光紙背に徹するような読みかたをしていくと、以上にのべた主旨のほかにも、いろいろたいせつな教えが暗示されていることがわかります。

他力と自力
 まず、長者がいったんは「大力をもってみんなを箱のようなものに乗せて外へ押しだして救おうか」とおもったのに、考えなおして、子どもたちが自分から外へ出るようにしむけた……ということです。

 これは〈他力の救い〉と〈自力の救い〉とどうちがうかを暗示してあるのです。なんにもいわず、衆生を苦界の外へ押しだしてあげるのは、他力の救いです。しかし、衆生は目前の楽しみや喜びにうつつをぬかしているのですから、その救いの箱からこぼれ落ちることもおこります。窮屈な箱などに乗っているよりは、荒れてはいてもひろびろとした家の中で遊ぶほうがおもしろいからです。本人が悟らなければ、そうなりやすいのです。また、いったんは火の家から出されても、なかのおもしろさにひかされて、またもどっていくこともおおいにありえます。

 そこで、なんとかして自分の力で救われるように、仏さまはみちびかれるのです。どんな段階の救いを求めて走り出るのでもいい、羊車を願ってもいいし、鹿車を求めてもいいし、牛車を欲しがってもいい、とにかく〈自分の意志で門の外へ出る〉ことにねうちがあるのです。自分の意志で出たのなら、よほどのことがなければあともどりはしません。信仰は、そうでなければならないのです。ただ神や仏に「救ってください」と頼むばかりで、自分の心を善くしようとか、自分の行ないを正そうとかしないならば、ほんとうの救いにたっするはずはないのです。自分の意志で、自分の修行によって自己の人格を完成してこそ、ほんとうの救いが実現するのです。

 しかし、そういった修行が最終的にゆきつくところはどこかといいますと、小さな〈我〉を捨てて天地の真理に随順し、仏の大慈悲心のなかへ溶け入る境地にほかなりません。ですから、この〈自力〉というのは、けっして「おれが、おれが」というような〈我〉の力ではないのだということを知らなければならないのです。

 つまり、自力信仰とは、自分の意志と努力によって仏に帰依していくことをいうのです。自力即他力であり、他力即自力であります。そして、それでなければ真の救いにはたっすることはできないのです。そのことが、ここに暗示されているわけです。

我を捨てる
 つぎに、ごく狭い門がひとつしかない……ということ。そのただひとつの門というのは〈我を捨てる〉という心の一大転回にほかなりません。凡夫にとって、これはたいへんむずかしいことですから、狭い門だといってあるのです。

 この〈我を捨てる〉ことには、いくつもの段階があります。第一の段階は、〈おおかたの人生苦は、我のかたまりであるもろもろの貪欲からつくりだされるのだ〉という原理を悟ることです。それを悟っただけでも、ずいぶんと我からはなれることができます。しかし、それではまだ我というものの生ずる原理まではわかっていませんから、十分ではないのです。

 そこで第二の段階として、〈縁起の法則〉によって、われわれがけんめいに欲しがったり執着したりするものごとは、すべて因と縁とによってできた仮りのあらわれだということを悟らなければなりません。また、〈十二因縁〉の法則によって、そういう貪欲のおおもとになるのは無明(無智)だということを知らなければなりません。

 それらの法則を悟れば、いままでにぎりしめていた我というものが、じつは実体のないものだということがわかります。したがって、自己中心の考えかたからひとりでにはなれていくことができるのです。

 ところが、もっと修行がすすむと、〈この宇宙のすべての存在はもともと平等であり、大調和しているのだ〉という真実を悟ることができます。みんな平等に仏性をもっており、仏の子である仲間だ、きょうだいなのだという一体感を、しみじみ味わうことができます。そこまでくると、もう我などというものはすっぽりと抜けてしまって、影も形もなくなるのです。

主・師・親の三徳
 この品のなかに、仏教の全経典のなかでもすぐれて尊いものといわれている、有名な偈があります。

 〈今此の三界は、皆是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり 而も今此の処は 諸の患難多し 唯我一人のみ 能く救護を為す〉

 この宇宙は全部わたしのものだ。万物・万人はすべてわたしの子だ。その子どもたちが苦しみ悩んでいるのを救うことのできるのは、わたしひとりしかないのだ──という意味です。

 これは、なにもお釈迦さまが「宇宙は自分のものだ」と所有権を主張しておられるのでもなければ、「自分ひとりしか救えないのだ」といばっておられるのでもありません。「どのような人でもみな仏性をもっているのだ。だから、わたしはすべての人にそのことをわからせ、一人もあまさずに、わたしとおなじ仏の悟りを得させてあげたいのだ」とおおせられているのです。

 日蓮聖人はこの一偈から〈主・師・親の三徳〉ということを導きだして、お釈迦さまのお徳を賛嘆しておられます。主の徳とは一切の衆生を守護してくださること。師の徳とは一切の衆生を教え導いてくださること。親の徳とは、一切の衆生を慈愛してくださることをいいます。

 そして、日蓮聖人は深い思索とさまざまな宗教的体験から、法華経を真に実践するものにも、このような三徳が備わるものであることを、ご自身の自覚として説とかれました。

 また、この一偈は次のように、より積極的に受け取ることもできます。

 われわれが、ほんとうに我を捨てることができれば、かならず、すべてのものに生かされている自分を発見することができます。そして、すべてのものすなわち、宇宙全体に生かされている自分をしみじみ見つめることができれば、自分がみるみる宇宙全体にひろがっていくのです。

 そうなると、心はまことに自由自在です。なにものにもとらわれず、おもうようにふるまっても、それがすべて真理( 妙法)にかない、自分をもすべての人をも生かす行為になってしまうのです。

 また、宇宙がわがものであれば、したがって、その中に住む衆生はすべてわが子であり、きょうだいであり、仲間です。だから、それらのために親身になってつくさずにはいられないのです。これがほんとうの大慈悲であり、仏の境地にほかなりません。

 このことは、この品においてはただ暗示だけにとどめられています。なぜかといえば、いきなりこのことをズバリと説いても、なかなか悟りにくいことだからです。それで、これからも根気よく長い説法をおつづけになるわけですが、暗示によってある印象をあたえておけば、いつかはそれが芽をふくことがあるわけで、お釈迦さまはそれをお見みとおしになって、このあとでもこのような暗示をつぎつぎとあたえられるのです。