無量義経 徳行品第一

 この品は、大荘厳菩薩というお方が、仏さまの完全円満な〈徳〉と、衆生済度の〈行〉を賛歎もうしあげる章です。
釈尊のお徳への賛歎
 大荘厳菩薩は、現身のお釈迦さまのお顔やおからだの、いわゆる〈仏の三十二相〉のりっぱさをほめたたえます。それはつまり、色身に表現されている完全な人格への賛歎にほかなりません。そして、それにつづいて、つぎのようにもうしあげています。
 「仏さまはこのような妙相をそなえたお方ではありますが、じつは相にあらわれるとかあらわれないとかということを超越した存在であられ、凡夫の眼では、とうていその本質を見ることはできないのです。
 衆生の本質も、やはりそのとおりなのですが、相ある身としてのあらわれかたがよくありません。仏さまは無限の徳をそなえておいでになり、その徳をお相にあらわしてくださればこそ、おおぜいの人が歓喜して礼拝し、帰依し、尊敬し、心をこめてうやうやしく対したてまつるようになるのでございます。それというのも、仏さまがどんなに悟られても、これでだというお気持を起こされず、修行に修行を積まれたからでありまして、その結果、このような、えもいわれぬ美しいお相を成就されたものとぞんじます。このようにして、ほんとうは相のない身であられるのに、相ある身として出現されるところが、わたくしどもにとって、まことにありがたいことでございます」
 ここに注目すべき点が二つあります。
 第一は、衆生の相すがたも、本質的にはやはりそのとおりであるということです。衆生も本質的には仏さまとおなじなのですが、修行が足らず、迷いに満ちているために、現実の身としてのあらわれは、仏さまとは比較にならぬ醜さであり、貧弱さです。本質的に仏さまとおなじならば、現象としてのあらわれも仏さまと同一になる可能性はあるわけですから、一面においては絶大な希望をもつことができ、一面においてはおおいに反省しなければならないわけです。
 法華三部経は、終始そういう思想につらぬかれているのです。ですから、まずこの〈本質の平等相〉と〈現象としての差別相〉ということをしっかり胸に刻んでおくことが、法華三部経を読むためにたいせつな準備となるのであります。
 第二に、「( 仏さまが)相ある身として出現されたところが、わたくしどもにとっては、まことにありがたいことです」ということです。
 お釈迦さまがこの世にお出になり、修行に修行をかさねられた結果、あのような完成された人格の持ち主となられ、仏の境地にたっせられたという生きた実例があるのですから、われわれとしてはその真似をしてゆきさえすればよいのであって、お釈迦さまがたいへんご苦労なさってたどられた道程よりはずっと容易に、仏への道をすすむことができるわけです。ここにお釈迦さまのご出世のありがたさがあるのです。
 それゆえ、われわれは、心に大歓喜をいだいて、お釈迦さまのおすがたを礼拝し、その教えを受持することによって、法身であられる仏さまのなかへ溶け入っていくことができるわけです。すなわち、正しい本尊観が、この大荘厳菩薩のことばに暗示されているわけであります。