無量義経 説法品第二

 そこで大荘厳菩薩は、仏さまに「わたくしども菩薩が、まわり道をしないで、まっすぐに仏の境地へたっするためには、どんな修行をしたらよろしいのでしょうか」と質問します。それにたいして、つぎのようにお教えになるのです。
 「無量義という法門こそ、みなさんを最高無上の悟りへみちびくものです。それはどんな法門かといいますと、まずつぎのことを見極めることからはじまります。

性・相・空・寂
 すなわち、〈この世のあらゆるものごとのありようは一切が平等で、つねに大きな調和を保っている〉ということです。われわれが肉眼でる現象は、大きいとか小さいとか、生ずるとか滅するとか、止まっているとか動いているとか、さまざまな差別や変化があるように見えますが、その根本においては、ちょうど虚空というものがどこをとってもおなじであるように、ただ一つの真理(法)にもとづくものであることを見極めねばならないのです」
 これが〈すべてのものごとは性相空寂である〉という教えです。〈性しょう〉とは、ものごとの性質をいい、〈相そう〉とは、その性質が表に現われた相すがたをいいます。
 〈空くう〉とは、すべてのものごとは縁起の法則によって存在しているのであって、あるものが絶対的存在であるとか、すべてのものごとの根源の存在である、というものは何もないということです。そのことから、すべてのものごとはその本質においては、平等であるという意味にもなります。〈寂じゃく〉とは、〈大調和した状態〉をいいます。すべてのものが生々発展しながらも大きく調和している、はつらつとした理想の状態のことです。
 お釈迦さまは、なおおことばをつづけられ、
「ところが、おおくの人びとはこの真理を知らず、目の前にあらわれた現象だけを見て、これは得だ、これは損だなどと勝手な計算をして、不善の心を起こし、さまざまな悪い行為をし、そのためにさまざまな苦しみを受けるばかりで、いつまでたっても、その誤った境界から抜け出ることができないのです。
 菩薩のみなさん。このことをはっきり見極めて、衆生にたいするあわれみの心を起こし、人びとを苦しみから完全に救いだしてあげようと決心しなさい。その目的を果たすために、またまた深く一切のものごとの実相を見極める修行をすることがたいせつです」
 と、人生苦の根本原因を示され、人間の苦しみを救う菩薩としての根本的な心がまえを教えられます。そして、こんどは、現象面における差別の相や、その移り変わる状態をもよく観察せよと教えられて、つぎのようにお説きになります。
 「おおくの人びとの機根や、性質や、欲望の相をしっかり観察しなければなりません。人びとの機根も、性質も、欲望も千差万別ですから、それぞれの人に説く教えも、当然千差万別にならざるをえません。

無量義は一法より生ず
 ところが、その数かぎりない、千差万別の教えも、もともとは一つの真理(法)から生ずるものでなければなりません。そのただ一つの真理とは、すなわち無相(特定の相のないもの)であり、そのような無相は一切の差別がなく、差別をつくらないもの(不相)であり、一切の差別をつくらないから、一切が平等であり、これを名づけて実相というのです」
 ここに、仏法における〈実相〉ということばの意味が、ハッキリと示されています。ふつう実相といえば、たんに〈ほんとうの相すがた〉というぐらいの意味に解されていますが、諸法実相などという場合の〈実相〉というのは、このような深遠な意味であることを記憶しておかなければなりません。ですから、凡夫にとって〈実相〉ということをほんとうに理解することは、ここではまだできないのです。
 さらに大荘厳菩薩は次のように問います。
「世尊は、いまあらためて無量義の教えをお説きくださいました。(それは根本において、いままでの教えと変わりはないようにぞんじますが)いままでの教えの内容とどこがちがうために、この無量義の教えを修めさえすれば、まっすぐに無上の悟りへたっすることができるとおおせになるのでしょうか」
 そこでお釈迦さまは、つぎのような大意のお答えをなさいます。
「わたしが菩提樹下で仏の悟りを得て、世の一切のことがらをながめてみますと、いまの段階の衆生にたいして、その悟りをそのまま説くのはかえってよくないという結論にたっせざるをえませんでした。それゆえ、衆生の境遇や、機根や、性質や、欲望に応じて、それにふさわしい説きかたをし、それぞれに救いみちびいてきたのです。

四十余年には未だ真実を顕さず
 そういうふうに、衆生の程度に応じた説きかたをしていますと、どうしても法の真実のすべてをうち明ける機会はなかなかないものであって、ついにこの四十余年間、究極の真理をすっかり説き明かすことなく過ごしたわけです。
 わたしがいままで説いてきたことは、すべておなじ真理にもとづくものです。しかし、たとえば、どこの水でも水であることに変わりはありませんが、谷川と、みぞと、池と、大海とはおのずからちがうように、わたしの教えも、初めのころの教えと、中ごろの教えと、いま説く教えと、まったく同一だとはいえません。ことばのうえではおなじように見えても、内容の深さにおいてちがっているのです。
 一切の諸仏の説く真理というものは、ただ一つしかありません。その一つの真理を、おおくの人びとが心に求めるものごとに応じて、さまざまな説きかたをするのです。また、仏の本体というのもただ一つなのです。その一つの身が無数の身に変わり、そのひとつひとつの身が、また無数のはたらきの変化を示します。これがすなわち、仏というものの不可思議な境地なのです。声聞(しょうもん)や縁覚(えんがく)程度の悟りの人はもちろんのこと、ほとんど仏に近くなった菩薩ですら、その境地をほんとうに知ることはできますまい。仏になってはじめて究めつくされる境地であり、ただ仏だけがほんとうに知りうるものです。その仏の悟りを得るためには、どうしても、いま説いた無量義ということを深く深く観じ、身につけなければならないのです」
 なるほどそのとおりです。〈すべてのものごとは性相空寂であり、一法より生じている〉と教えられてみると、頭のうえでは大体わかります。しかし、それはあくまでも大体であって、しんそこからハッキリわかったといいきる人はまずありますまい。そのことを明らかに見きわめるとなると、仏と同等の智慧をそなえなければできることではありません。
そうなったらすでに仏です。ですから仏さまは、《方便品第二》で〈唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり〉とおおせられたわけです。
 だからといって、われわれは絶望してはなりません。お弟子のなかで智慧第一といわれた舎利弗でさえ、この《無量義経》のお説法では、まだ悟りをひらけなかったのです。
それゆえお釈迦さまは、このあとで《妙法蓮華経》を根気よくお説きになって、一切衆生をその悟りへみちびいてくださるのです。ですから、この《無量義経》を読んで、すっかりわからなくても、かまいません。ここではすべてのものごとの〈実相〉ということについて、おぼろげながらでも頭にえがくことができれば、それで十分としなければなりますまい。