妙法蓮華経 分別功徳品第十七

 この品は、まえの《如来寿量品第十六》で説かれた〈仏の本体は、宇宙の万物を生かしている久遠実成の本仏であり、つねにわれわれと共にいて下さる不生不滅の存在である〉ということをしっかり悟ったものが当然得られる功徳を、十二の項目に分け(分別し)て説き、かつ正しい信仰生活のありかたについてくわしく教えられたものです。

生きがいを知る大功徳
 その十二の項目については一々ここに説明しませんが、要するに、われわれは無始無終・不生不滅の久遠実成の本仏に生かされているのだという、信仰の根本さえつかむことができれば、その信仰をますます深めていく力も、それを他へおしひろめていく力も、ともに無限に湧いてくることを教えられているのです。そして、その信仰に徹していけば、いつかはかならず仏さまとおなじような究極の「めざめ」の世界にたっせられるのだという、最大最高の功徳も約束されています。

 もちろん、仏の境地にたっするのは、なみたいていの修行ではできません。この品に説いてありますように、八度生まれかわるあいだ修行して、ようやくたっしうる菩薩もあるのです。しかし、正しい信仰をもち、そして努力さえすれば、いつかはお釈迦さまとおなじようになれるのだという真実は、われわれ人間にとって、なんという大きな光明でしょう。この光明があるかぎり、すべての人の人生はじつに生きがいのある、楽しいものになるのです。

 ただお金をもうけたり、損したり、恋愛をしたり、失恋したり、ながいあいだかかって高い地位を得たかとおもうと、ちょっとの失敗でそれを失ったり……こうして空しい喜びや悲しみをくりかえしながら一生を過ごす……その瞬間瞬間はなんとなく充実しているように感じても、死ぬ間際に一生をふりかえってみると、それらがみんな〈我執〉に踊らされ、影を追ってあくせくしたにすぎないことがわかり、いいしれぬ空虚感をおぼえるにちがいありません。

 ところが、形のうえではそれと似たような苦しみや悲しみや喜びのくりかえしの一生でも、その人生をつらぬく〈信仰〉という一本のつよい背骨があったならば、そして、形のうえでは浮きつ沈ずみつしながらもつねに仏の境地へ一歩一歩上ってゆきつつあるのだという〈確信〉があったならば、どんな苦しい生涯でも、楽しく生きていくことができ、楽しく死んでいくことができましょう。

 われわれの生命は、この世かぎりで終わりになるものではありません。ですから、つぎの世も、またそのつぎの世も、ただもう日常生活に起こるさまざまな事件に喜びと悲しみをくりかえし、それが永久につづいていったり、さらには人間としての生どころか、地獄界や畜生界などの悪趣をも輪廻していくのだということがわかったら、考えただけでうんざりしてしまうでしょう。

 それと反対に、真の信仰をもちえたものは、つねに一歩ずつでも仏の境地へ近づいていくという自覚がありますから、どんな長い旅路でも、けっして飽きることがないのです。いつも希望に満ち、充実した生きかたができるわけです。これこそ、真の信仰者のみが得られる大功徳というべきでありましょう。

 しかも、真の信仰者の努力というものは、ただ自分だけが仏の境地にたっすることを目的とするものではなく、できるだけおおくの人を道連れにしてあげたいという努力をともなっているのですから、真の信仰者がふえればふえるほど、人類全体が向上してゆき、この世界が理想の寂光土に近づいていくのです。

 経典のここのところで分別して説かれたさまざまな功徳は、ひっくるめていえば以上のようなことに要約されるのです。

流通分を学ぶ心がけ
 この品の後半から《普賢菩薩勧発品第二十八》までを〈流通分〉といって、「正しい信仰をもてばどのような結果があらわれるか」ということと、「正しい信仰をもつにはどのような心がけが必要か」ということが主として説かれています。そして「その正しい信仰をのちの世まで説きひろめよ」と、お釈迦さまが、われわれをもふくむ全仏弟子に委嘱なさっておられるのです。

流通分の功徳
 この《分別功徳品第十七》に説かれた功徳は、信仰上の功徳です。心に得られる功徳です。つぎの《随喜功徳品第十八》の前半も、おなじ功徳が説かれています。ところが、その後半以降には、われわれの身の上や日常生活にあらわれる功徳も説かれているのです。

 人によっては「そういう功徳について聞く必要はない。《法華経》の中心である〈一品二半〉を徹底的に学び、その教えをしんそこから理解し、仏の無量寿と、われわれも本来、本仏と一体なのだということを心から信ずれば、それでいいのだ」と考えることもありましょう。それが完全にできれば、りっぱです。完全な信仰です。しかし、そんな人は一万人に一人いるか十万人に一人いるか……現実の問題としてはなかなかむずかしいことです。

 おたがい凡夫の悲しさで、理想の境地が説かれただけでは、なんだか自分からかけはなれた遠い世界のようにおもわれるのです。やはり、身近の問題として、日常生活に即して説かれたとき、教えがいきいきと感じられます。ここに〈流通分〉の第一のたいせつさがあるのです。

 また凡夫の心はともすればゆるみがちになります。教えのありがたいことはよくわかっていても、ただ頭のうえで「ありがたい教えだ」という理解をもつだけでは、いつしか懈怠におちいることも起こりえます。ところが、「正しい信仰をもち、身に行なえば、現実にこういうふうに向上していくのだ」と説かれてある経典を、つねに読誦すれば、ゆるもうとする信仰心が、そのたびにひきしまってくるのです。これが〈流通分〉のたいせつさの第二です。

 また、仏さまは、われわれのような凡夫にたいしてさえ、「この教えを説きひろめてくれよ」と依頼してくださっています。ありがたいことです。そのおことばを拝し、そのみ心を察するごとに、いいしれぬ励みをおぼえるのです。大勇猛心をふるい起こすのです。これが〈流通分〉のたいせつさの第三です。

 とにかく、十万人中の九万九千九百九十九人を占める凡夫にとっては、〈流通分〉はなくてはならぬものでありますから、謙虚な気持で、本論である〈正宗分〉とおなじように熱心に学んでいかなければなりません。

四信五品
 さて、この品に説かれている信仰者の心がけについては、天台大師によって、わかりやすく記憶しやすいように〈四信五品〉というふうに整理されています。

 〈四信〉というのは〈在世の四信〉ともいい、お釈迦さまご在世中における信仰のありかたを四つの段階に分けたものですが、もちろん末世のわれわれにも、そのまま通用することです。

一、一念信解…… 仏さまの生命の無量であることを、一念にでも信解することのたいせつさです。それが〈諸法実相へのめざめ〉であり、一大飛躍であるからです。

二、略解言趣……一より一歩進んだ段階で、一念に仏の無量寿を信解するばかりでなく、その教えにふくまれる大きな意味を、あらまし理解することです。おおづかみにいえば、〈仏さまの寿命が不生不滅であれば、それと一体であるわれわれの仏性も不生不滅である。ただ、われわれの仏性はいろいろと迷いの雲にとざされているために、仏さまとはちがった存在と考えられるだけのことである。だから、その迷いの雲をひとつひとつとりはらっていけば、かならず仏さまと完全に一体になることができるのだ〉という理解にたっすることです。

三、広為他説……二よりさらに一段上がった、信仰者のありかたです。すなわち、その教えに説かれた真実をほぼ理解するだけでなく、いよいよすすんで、ひろく法華経の教えを学び、それを心に植えつけて忘れず、その教えに帰依と感謝のまごころをささげ、しかも世のおおくの人びとにもすすめて教えを聞かせ、仏道に引き入れてあげることです。

四、 深信観成……いよいよ仏の無量寿にたいする信解が深まって、いつも仏さまが自分といっしょにおられるのだということを如実に感じるようになった境地をいいます。こうなれば、仏さまの教えのとおりの世界観・人生観を完成し、つねに法悦の世界に住むことができるのです。

 〈五品〉というのは、〈滅後の五品〉ともいい、世尊ご入滅後における信仰者のありかたと、その功徳を次の五つに分けて説かれているものです。

一、初随喜…… 仏の無量寿を聞いて、頭のうえで理解するだけでなく、「ああ、ありがたい」という歓喜の念を起こすことです。これが信仰というものです。このことについては、あらためてつぎの《随喜功徳品第十八》においてくわしくお説きになります。

二、読誦……初随喜を起こしただけでも、すでに真実の信仰を得たといえるのですから、ましてや、その教えを一心に学び、誦んじ、しっかり心にたもつものは、さらに一歩すすんだ段階にはいったわけです。

三、説法……読誦によって、仏さまの教えのありがたさがしみじみわかってきますと、それをひとにも説いてあげずにはおられなくなります。そうすることによって、自分もますます向上し、ひとをも教化できるのですから、その功徳はさらに大きなものになるわけです。

四、兼行六度……六度というのは六波羅蜜のことで、この教えを受持し、読誦し、説法するという行に兼ねて、六波羅蜜をも行ずるという意味です。そうすることによって、いよいよ菩薩としての境地が高くなっていくわけです。

五、正行六度……完全に六波羅蜜を行ずるようになった段階で、こうなれば、いよいよ仏の悟りにも近づいたことになるのです。