妙法蓮華経 随喜功徳品第十八

五十展転
 この品には、〈初随喜〉の功徳をさらに強調し、くわしく説いてあります。なぜこのようにくりかえして説いてあるかといいますと、教えに随喜する、すなわち心から「ありがたい」とおもうその感激と歓喜こそが、信仰にとって欠くことのできない、大きな根本要素であるからです。

 お釈迦さまはここで、「もしある人が法会のなかで、この教えを聞いて、『ありがたい』という喜びを感じ、ほかのだれかに、自分の力でできる程度でいいから、いま聞いたばかりの話をしてあげたとしましょう。それを聞いた人もまた、おなじような随喜の心を起こし、おなじようにほかの人に伝えたとしましょう。こうして五十回も転々と伝えられたとして、その五十回目にこの教えを聞いた人が、『ありがたい』という感激をおぼえたとしたら、その功徳は、ある大金持ちが一生のあいだありとあらゆる布施を行なったその功徳の、何億倍もの価値があるのです。いわんや、最初に法会でこの教えを聞いた人の受ける功徳となると、まことに無量無辺であります」とお説きになっておられます。

 最初の人は、信仰的な雰囲気をもつ法会のなかで、よく法に通じ、説得力もある指導者の話を聞いたのですから、おおいに感激し、大きな功徳を受けるのはもっともですが、それがつぎからつぎへと転々と伝えられた五十人目ともなれば、話術もなにも抜きにした、信仰的な雰囲気もない、骨ばかりの話になりましょう。ところが法華経は、その骨(内容)がかぎりなく偉大ですから、五十人目にいたっても、感銘をおぼえざるをえないのです。

 それならば、その感銘による功徳が、なぜ一生のあいだ布施をしつづけた大金持ちの受ける功徳よりも大であるかといえば、第一に、正法を聞いておぼえる真の喜びは、なにものにも比べることのできない尊いものであるからであり、第二に、その喜びはこれからさき人から人へと展開していく無限のエネルギーをもっているからです。

法縁に会う尊さ・それを与える尊さ
 つぎに、随喜までにはいたらなくても、説法の座でほんのちょっとのあいだこの法華経の教えを聞いただけでも、その功徳はたいへん大きく、ましてや、その説法会であとからきた人に「さあ、ここにすわってお聞きなさい」と座席をゆずってあげるような行ないをした人の功徳は、さらに大きいものであることが説かれています。

 これは、つまり法縁のたいせつさをいってあるのです。われわれはすべて仏性をもっていることにまちがいはないのですが、縁あってその仏性が目を覚まさなければ、救いにたっすることはできません。ですから、なによりもまず教えに触れることが先決条件であり、したがって、教えに触れる縁というものはじつに尊い、たいせつなものであります。いわんや、他人にその縁をあたえるとなると、さらに尊い行為といわなければなりません。

 要するに、この品は、教えを聞いて心から感激をおぼえる素直な心、また感激をおぼえたらそれをひとに分けあたえずにはおられなくなる純真な気持……これが信仰者にとってもっともたいせつであることが教えられているわけです。