妙法蓮華経 従地涌出品第十五

 この品から、いよいよ仏というものが明らかにされる〈本門〉にはいります。この品の前半が本門の序文(序章)で、その後半から、つぎの《如来寿量品第十六》の全部、そのつぎの《分別功徳品第十七》の前半までのいわゆる〈一品二半〉が、正宗分(本論)となるわけです。

他方の菩薩の誓願
 さて、世尊が《安楽行品第十四》の説法を終えられますと、他の方々の国土からきていた無数の菩薩たちが立ちあがり、「もしおゆるしくださいますならば、わたくしどももこの娑婆世界にとどまり、世尊のご入滅後もこの教えを護持し、説きひろめたいとぞんじますが、いかがでしょうか」ともうしあげます。

 世尊は、「お志はありがたいが、その必要はありません。この娑婆世界には、ずっとむかしから無数の菩薩たちがおり、法華経を説きひろめる役目はその人たちがやってくれるからです」とお答えになりました。

地涌の菩薩の出現
 その瞬間、大地に無数の割れ目ができ、そこから、ほとんど仏に近いような貴相をそなえた菩薩たちが、かぞえきれないほど湧きだしてきたのです。そのなかの指導者格である上行・無辺行・浄行・安立行という四大菩薩は、お釈迦さまのまえにすすみ出て、ご挨拶をもうしあげますと、お釈迦さまは、たいへん親しげにそれにお答えになります。

弥勒菩薩の疑問
 そのありさまを拝していた、弥勒菩薩をはじめとする娑婆世界の菩薩たちは「このようなりっぱな菩薩がたは、いったいどこからこられたのか、どういう因縁の人たちなのか」という疑問を起こしました。そして、弥勒菩薩がそのことを釈迦さまにおたずねいたしますと、「大地から湧きだしたこれらの菩薩たちは、わたしが娑婆世界において悟りをひらいてから教化したもので、いままで娑婆世界の下の虚空に住していたのです。そして、この菩薩たちは、はるかなむかしからわたしが教化してきたのです」とお答えになります。

 さあ、いよいよわからなくなりました。釈迦さまが悟りをおひらきになってから、まだ四十余年しかたっていないのに、ほとんど無数ともいうべきこの人たちを、しかも仏さまに近いほどのりっぱな菩薩に育てあげられたということは、どうしても腑に落ちません。それに、ながいあいだ仏さまのおそばにつかえていたのに、この人たちをいっぺんも見たことがないのです。

 かとおもうと、こんどは「じつは、はるかなむかしから教化してきたものである」とおっしゃるのですから、まったく頭がこんがらかってしまいそうです。たまりかねた弥勒菩薩が率直にそのことをもうしあげて、教えを請うところで、この品は終わっています。

本化の菩薩と迹化の菩薩
 ここで、本化の菩薩と迹化の菩薩について、のべておきたいと思います。

 迹化の菩薩とは、迹仏に教化された菩薩たちのことをいいます。迹仏とは、インドにお生まれになり、菩提樹下で悟りをひらかれた釈迦さまのことです。ですから、迹化の菩薩とは、この世に生をうけた人間である菩薩なのです。

 本化の菩薩とは、本仏に教化された菩薩たちのことをいいます。本仏とは、いうまでもなく、この後の《如来寿量品》において開顕される久遠本仏のことです。その本仏に教化されたのが、本化の菩薩である地涌の菩薩であったのです。ですからまだ、無量の寿命をもつ久遠本仏のことを知らない弥勒菩薩たちは、釈迦さまのいわれたことが何がなんだかわからなかったのです。

 このように本化の菩薩と迹化の菩薩には、はっきりとしたちがいがあり、本化の菩薩である上行等の四菩薩をはじめとする地涌の菩薩が、いかにすばらしい菩薩であるかが、ここで口をきわめて誉めたたえられております。

 なぜここで、本化の菩薩のりっぱさが強調されているのかといいますと、〈本化の菩薩たる自覚〉をもつものが、いかに尊くすばらしい存在であるかを、強く印象づけるように表現したかったからです。そして、すべての人に〈地涌の菩薩のような、すばらしい存在になりたい〉というあこがれと、願いをもってほしかったからに他なりません。ですから、ここでひとつの伏線として、このような表現がなされたのです。

 つまり、このあとの《如来寿量品》で明らかにされることですが、この世に生をうけたお釈迦さまご自身が、久遠本仏そのものであるわけです。ですから、お釈迦さまがまさしく久遠本仏であることを知り、自分がその本仏の実子であることをしんそこから確信し、本仏として説かれたこの法華経を実践するならば、すでにその人は生身の人間でありながら、本化の菩薩なのであります。

 それゆえ、迹化の菩薩と本化の菩薩は本来はひとつであり、けっして別のものではないのです。

 したがって、現代のわれわれも、お釈迦さまの教えを学び、実践し、その人の能力の範囲内だけで世の人を救うはたらきをするだけならば〈迹化の菩薩〉であり、もし「自分は久遠の本仏に教化された地涌の菩薩であり、本来本仏と一体の身である」ということをしんそこから自覚し、本仏の本願を自分の本願として、法華経の精神をもって菩薩行を行なえば、行なう所作はおなじでも、りっぱな〈本化の菩薩〉であります。迹化の菩薩と本化の菩薩は、外から見ればおなじような信仰形態をとっているように見えますけれども、その信仰内容にたちいってみると格段のひらきがあり、それが教化・救済のはたらきにあらわれてくるわけです。

地涌の菩薩の価値
 この品にとつぜんあらわれてきた〈地涌の菩薩〉については、いろいろな見かた考えかたがありますが、とくにつぎの三つのことがたいせつだとおもいます。

 第一に、お釈迦さまが、他の世界からきている菩薩のもうし出をことわられて、地涌の菩薩にこの娑婆世界の教化を任せられたということ。

 それはつまり、〈どの世界でも、そこに住んでいる人びと自身の努力によってその世界を平和にし、自身の手で幸福な生活を築きあげていかねばならない〉という教えです。

 第二に、娑婆世界の下の虚空に住して、悟りの境地を楽しんでいた菩薩たちが、お釈迦さまのお声に応じて、大地をくぐりぬけて出現したということ。

 〈娑婆世界の下の虚空〉に住している菩薩というのは、たしかにこの世の人でありながら、〈空〉の悟りに安住し、その悟りを人間世界救済のために発動せずにいる人です。〈空〉の悟りとは、人間に即していえば、〈人間の本質は平等な仏性である〉ということですから、たしかにこの真理は悟っているけれども、内にその悟りを楽しんでいるだけで、外へむかってはたらきかけようとしない人です。それでは、その人自身は汚れのないりっぱな人ですけれども、衆生救済の役には立たないのです。

 どうしても、一度大地をくぐりぬける必要があります。すなわち、現実社会の生活を体験し、汚れと濁りのなかであえいでいる大衆のなかに飛びこみ、その苦しみ悩みにじかに触れる必要があるのです。そうしてこそ、ほんとうに人間を指導し、救済することができるわけです。つまり、観念論だけではだめで、現実に即さなければ生きた人間は救えないということです。

 第三に、それらの地涌の菩薩たちの指導者格である四大菩薩に、上行・無辺行・浄行・安立行と、すべて〈行〉という名がつけられているということ。

 《法華経》の前半は、主として理の教えであり、智慧の教えでしたが、その前半の説法が終わったとたんに、これらの〈行の菩薩〉が無数に出現したというのは、いうまでもなく、教えは実践しなければなんにもならぬということにほかなりません。前半の迹門の説法で説かれた諸法実相の智慧を現実生活にあらわし、慈悲の行ないとして実践する行動者こそ、真の菩薩であり、ほんとうに仏の教えをこの世に生かす人なのです。このことは、現世のわれわれにもそっくりそのままあてはまることですから、よくよく心しなければならないことだとおもいます。