妙法蓮華経 如来寿量品第十六

 迹門の柱である《方便品第二》においては、〈諸法実相〉ということを説かれました。その結論は〈本末究竟等〉すなわち〈目に見える現象は、一定の法則によってさまざまな変化を見せるけれども、はじめ(本)からおわり(末)まですべて等しいのである〉ということでした。これはあくまでも哲学的な真理であり、きわめて冷厳なものです。それだけに、たんにその真理を悟っただけでは、すぐさまそれが人間救われや生きがいには結びつかないのです。

 それゆえ、お釈迦さまは、その真理を人間に即して〈人間の本質は仏性である〉という方向へ、しだいしだいに説きすすめられました。はじめから明らかにそれをお説きになっても、一般の人びとにはすぐのみこめるはずがないので、譬え話をなさったり、過去世の物語にことよせたりしながら、暗示的にだんだんと人びとの心をその方向へ引き寄せてこられたのです。

久遠実成の宣言
 そして、ついにこの《如来寿量品第十六》の説法で、その真実をハッキリとうち明けられるのです。すなわち、仏の寿命は不生不滅であり、その仏を遠実成の本仏といい、釈尊こそその久遠実成の本仏であるとお説きになりました。そして、人間は(人間以外の万物も)その久遠本仏に生かされている仏の実子であることを明らかにされるのです。そこで、冷厳で哲学的な諸法実相の悟りに、人間的な温かい血が通いはじめ、人びとは「自分は久遠の本仏の慈悲にいだかれているのだ、生かされているのだ」という、しみじみとしたありがたい思いにつつまれるようになるのです。そうなってこそ、ほんとうの幸せが生まれ、ほんとうの生きがいが感じられてくるわけです。

 いうならば、迹門は哲学的な悟りの教えであり、本門はそれに精神鼓舞のエネルギーをあたえた、宗教的な教えの極致なのであります。それゆえ、この品こそは《法華経》のみならず、一切経の魂魄であるといわれているわけであります。

 この品には、そういう真実が理論的にも説かれていますが、なんといっても、すべての人にわかりやすいようにというお心づかいから説かれた〈良医治子の譬え〉が、この品の中心であるといっていいとおもいますから、その譬え話にもとづいて、この品の教えの要点を考えていくことにしましょう。

良医治子の譬え
 ある所にひとりの医師がいました。すぐれた智慧をもち、薬の処方にも熟練していて、どんな 病気でも治す名医でした。

 その人にたくさんの子どもがありましたが、父の医師が所用で他国へ出かけたるすに、あやまって毒になる薬を飲んでしまいました。父が家におればそんなことは起こらないのですが、るすのあいだはしたいほうだいの生活をしているので、ついそんなことになったのです。

 だんだん毒がまわってくると、子どもたちは地べたをころげまわって苦しみました。そこへ、さいわい父が帰ってきました。子どもたちは、あるものはあまり毒がまわっていず、あるものは毒のために本心を失っているものもありましたが、それでも遠くのほうに父の姿をみつけると、一様にたいへん喜びました。

 みんな父の前にひざまずいて、「おとうさん、よく帰ってくださいました。わたくしどもはばかなことをしてしまったのです。まちがって、毒になる薬を飲んでしまいました。どうか治療してください。命を助けてください」と頼みました。父は子どもたちが苦しんでいるのを見て、よく効く薬草の、しかも色・味・香りのいいものを選んで、飲みやすく調合して、子どもたちにあたえました。「これはすばらしくよくきく薬だ。さあ、すぐお飲み。いまの苦しみが治るばかりか、これから先も病気ひとつしなくなるよ」

 子どもたちのなかで本心を失っていないものは、すぐそれを飲みましたので、毒による病はすっかり治ってしまいましたが、毒が深くまわっている子どもたちは、さきほどは「病気を治してください」と頼んでおきながら、せっかくの薬を飲もうともしないのです。なぜかといえば、毒のために本心を失っているので、その薬が色もわるく、へんな臭いがするように感じられて、飲む気になれなかったのです。

 それを見て、父の医師は考えました。「ああ、かわいそうに、毒のために心がすっかり倒(てんどう)しているのだ。しかたがない。こうなったからには非常手段をとって、この子たちがかならず薬を飲むようにしむけよう」

 そこで、父は「みんなよく聞きなさい。わたしはもう年をとって、死期が近づいている。それなのに、また用があって他国へ出かけなければならないのだ。それで、この良薬をここにおいておくから、かならず飲むのだよ」といいのこし、旅に出てゆきました。そして、旅先から使いを出して、「お父上はおなくなりになりました」と告げさせました。

 それを聞いた子どもたちは、たいへんおどろき、悲しみました。「ああ、おとうさんがおられたらなあ……」という心細さが、痛切に感じられてきました。すると、そのショックで、ハッと本心にたちかえることができました。

 そこではじめて、父ののこしていった薬が色も香りもいいのに気がつき、さっそくそれを飲みますと、たちまち毒による病はすっかり治ってしまいました。

 ところがどうでしょう。子どもたちが治ってしまうと、死んだとばかりおもっていた父が他国から帰ってきて、みんなの前に元気な姿をあらわしたのでありました。

すべての煩悩の根本は
 父の名医は仏さまであり、子どもたちはわれわれ凡夫です。毒になる薬というのは五欲の煩悩であり、良薬というのは仏さまの教えであります。

 凡夫はさまざまな煩悩をもっていますが、煩悩の起こるいちばんの根本原因をさぐってみますと、〈目に見えるもののみを実在とおもい、それにとらわれ、むさぼりの心を起こす〉ところにあるのです。自分のからだをはじめとして、目の前にあるさまざまな物質や、金銭や、まわりに起こるものごとを、確固として実在するものと見るために、それにとらわれ、心をふりまわされて苦しむのです。

縁起観
 そこでお釈迦さまは、「この世のすべての現象は、因と縁によって生じた仮りのあらわれにすぎない。その因と縁がなくなれば現象もなくなり、ちがった因と縁とが和合すれば、かならずそれにふさわしい現象があらわれるのだ」という真理(縁起観)を教えられました。その真理にもとづいて〈十二因縁〉・〈四諦〉・〈八正道〉・〈六波羅蜜〉など、いろいろな教えを説かれました。そして、それらの教えによって、おおくの人びとが迷いをのぞき、安らかな心境にたっすることができました。

仏さまは不生不滅
 しかし、お釈迦さまのようなりっぱな指導者がいつも身近におられて、たえずそのような教えによって人びとを導いてくださるうちは無事ですが、そのような指導者がいなくなると、だんだんと元の木阿弥にもどっていくのが、凡夫の悲しさです。目に見えるものしか信じられない凡夫は、久遠実成の本仏である仏さまはつねにそばにおられるのに、目に見える仏さま(お釈迦さま)が入滅されてしまうと、つい道をふみはずすようになるおそれがあります。

 お釈迦さまはそれを心配され、そのために、〈仏は不生不滅である〉ということをしっかり教えこんでおこうとして、この譬えをお説きになったのです。たとえ指導者がいなくても、真実の教えさえのこっておれば、それで救われるからです。

 子どもたち(衆生)が、父( 仏さま)のるすに、あやまって毒になる薬を飲んで七転八倒したのは、りっぱな指導者がいなくなったために、したい放題の生活をしはじめ、それで苦しみを招いたというわけです。

 そこへ、父上が旅行から帰ってこられました。毒(五欲にふりまわされる生活)のために本心を失っていた子どもたちも、それを見てたいへん喜びました。なぜかといえば、どんなに道をふみはずしていても、人間には、仏性というものがちゃんとあるからです。

宗教を窮屈におもう心理
 名医の父すなわち仏さまは、〈迷いをのぞく薬〉とか、〈ほんとうの智慧を得させる薬〉とか、〈ひとのためにつくす心を起こさせる薬〉など、いろいろ貴重な薬を調合し、それを凡夫にものみやすいようにしてあたえられました。これが方便の教えです。

 それを飲んだ衆生はすぐ救われたのですが、せっかくの良薬を飲もうともしない衆生もたくさんいるのです。なぜかといえば、ほんとうは香りも味もよいその薬が、本心を失っている衆生にとっては、へんな臭いのする、いやな色の薬に見えるので、手を出したがらないのです。ということはつまり、五欲の楽しみにおぼれきっている衆生は、仏さまの教えがなんとなく窮屈なように感じられて、その教えのなかにはいろうとしない……というわけです。

恋慕仰(れんぼかつごう)の思い
 これは、まったくあさはかな人間のわがままなのです。そこで、仏さまは衆生の目を覚まさせるために非常手段をおとりになります。すなわち、見えないところへ、一時身をおかくしになるのです。

 歴史的にいえば、お釈迦さまが入滅されることです。そうすると、人びとは、にわかに心細くなり、失った大指導者を恋い慕う感情が猛烈に起こってきます。のどの渇いた人が水を求めるような切実さで、仏を求める心が湧いてくるのです。この思いを、経典の偈のなかでは〈恋慕〉・〈仰(かつごう)〉といってあります。

 そういう痛切な思いが生ずれば、人間はかならず本心にたちかえります。目が覚めるのです。これはなんとかしなければならない──とおもって、のこされた教え( 良薬)にとびついていくのです。

 この〈恋慕仰(れんぼかつごう)〉の相手は、かならずしも現実の仏さまにはかぎりません。これを抽象的に考えれば、つぎのようになります。いままでは神とか仏とかにまったく無関心で、ただ日々の生活に夢中になっていた人が、ある危機に直面して、なにかにすがりつきたい気持になったとき、もしくは物質生活に満足しきってしかもなんとなく空しいものをおぼえ、なにか心の満足をあたえてくれるものはないかとおもうとき、その〈すがりつきたい〉〈心の満足をあたえて欲しい〉とおもう相手が、たとえ自分では意識しなくても、じつは神・仏なのです。

 このように、歴史的な存在であった仏さまでもよし、抽象的な存在である仏さまでもよし、とにかくほんとうに自分を救ってくれるものを、のどが渇いた人が水を求めるように求め、恋いあこがれる思いがあってこそ、その人の心は清められ、救われるのです。宗教が、哲学や道徳の教えとちがうところは、その一点にあるのです。りっぱな哲学や道徳の教えは、頭( 表面の心)で「なるほどそうか」と理解するものです。すべての人が、それを理解し、そのとおり実践できれば、問題はありません。ところが、じっさいはなかなかそうはゆきません。〈表面の心〉ではわかっていても、人間には〈かくれた心〉という始末のわるいものがあって、それがしらずしらずのうちに人間を迷わせ、よくない行動をさせるのです。ですから、この〈かくれた心〉までも清めなければ、人間は救われないのですが、それをしてくれるのが宗教であり、信仰なのであります。

 このことが、この品の要点のひとつであります。

めざめれば仏さまが見える
 この子どもたちも、父にたいする恋慕仰(れんぼかつごう)の念を起こしたからこそ、目がさめたのです。ところが、目をさまして本心にたちかえると、たちまち父は帰ってきました。ということはつまり、衆生がハッと気がつけば、いつでも仏さまはそこにいらっしゃるのだ……という意味です。

 仏さまは不生不滅であり、一瞬たりともわれわれのそばから離れられることはないのです。いや、〈そば〉ということばもほんとうは正確ではなくて、仏さまはつねにわれわれの内にも外にも満ち満ちておられるのです。われわれは仏さまと一体なのです。

 ですから、そういう意味の仏さまが姿を消されるというのは、われわれがそれを忘れ、見失ってしまうことにすぎないのです。人間は、五官でもって実際に感じられないものにたいして、いつもはあまり関心がありません。また、五官で感じられるものですら、たとえば、空気でも、太陽でも、水でも、ふだんはほとんどその存在を忘れています。しかし、なにかことがあれば、とくにそれが欠乏してくると、そのありがたさをおもいだします。

 仏さまにたいしても、われわれはおなじような誤りをおかしているのです。仏さまの本体は、この世のありとあらゆるものを生かしておられる久遠実成の本仏です。ですから、その本仏のみ心のとおりに生きておれば、心は自由自在であり、いつもしあわせにしておられるのに、ついそれを忘れてしまうために、わがままな行ないをして、そのためにみずから苦しみを招いているわけです。

生かされている自覚
 もしわれわれが、いつも「自分は久遠実成の本仏に生かされているのだ」という自覚を深くもち、「久遠実成の本仏に生かされているかぎりは、そのみ心のとおりに生きることが正しい生きかただ」という明快な真実を悟り、本仏のみ心にもとづいて説かれたお釈迦さまの教えにしたがって生きてゆきさえすれば、つねに大自信をもった生活ができ、人生苦などはあってもなきにひとしくなってしまうのです。

 それが、ほんとうの人間らしい生きかたであり、この品は、最大の要点としてこのことを教えられているのです。