妙法蓮華経 提婆達多品第十二

 まえの《見宝塔品第十一》において、〈人間の本質は仏性である〉という大事実が明らかにされました。とすれば、当然「自分の本質は仏性である」と悟るのが、ほんとうの人間として完成する第一の道であり、最高の道であることになります。まったくそのとおりであって、その悟りを完全に成就した人が、すなわち仏にほかならないのです。

 したがって、どんな人間でも、たとえ世間でつまはじきにされる悪人であろうと、充分な教育も受けていない幼子であろうと、自分の仏性を完全に自覚し、確信することができさえすれば、たしかに仏になりうるのです。

 仏性自覚の教えをそこまで発展させたのが、この《提婆達多品》であります。この品は、大きく分けて二つの部分から成り立っています。第一の部分がいわば〈悪人成仏〉、第二の部分がいわば〈女人成仏〉を説かれたものです。

悪人成仏
 まずお釈迦さまは、ご自分の前世の物語をなさいます。前世におけるお釈迦さまは、ながいあいだ国王の地位にあられましたが、その安楽なくらしに満足せず、真実の教え(妙法)を求めつづけておられました。そして、その教えを得るためには、自己の生活のすべてを犠牲にしてもかまわないとお考えになっていました。そして、ついに「世のすべての人を救う教えを説いてくれる人があれば、わたしは一生涯その人につかえて、身のまわりの世話をするであろう」というおふれを全国にだされたのです。

 ところが、ひとりの仙人がやってきて、「わたくしは、世のすべての人を救う妙法蓮華という教えを知っています。もし王さまがおふれのとおりのことをなさいますなら、かならず説いてさしあげましょう」ともうしました。

 王は、そくざにその仙人につかえました。木の実を集めてきたり、水を汲んだり、生活万端の世話をしたばかりか、地べたにうつぶせになって師の仙人の腰かけになるということまでしたのです。そういう努力をしながら、その最高無上の教えを聞くことができたのです。お釈迦さまはこの話をなさって、「わたしが仏の悟りを得たのは、前世のそうした修行が大きな遠因となっているのですが、じつはその仙人というのは、あの提婆達多の前世の身にほかならないのです。つまりわたしは、提婆達多という善知識(善い友人)をもちえたおかげで、こうした仏となり、ひろく衆生を救うことができるのです」とおおせられました。しかも「提婆達多は、これからのちながいあいだ修行することによって、かならず仏となるでありましょう」と、成仏の保証まであたえられたのです。

 提婆達多というのは、お釈迦さまとは従兄弟どうしのあいだがらで、お弟子のなかに加わっていたのですが、頭はよかったのに心がひねくれていたために、ことごとく反抗するようになり、教団の和合を破り、ついにはお釈迦さまのお命まで奪おうとした悪人でした。そういう大逆罪をおかしたものを、ご自分の善い友人であるとか、そのおかげで仏の悟りを得たとか、かならず仏の悟りを得るであろうとかおおせられますので、一同は大きな驚きと、不思議な感銘を受けたのでありました。

徹底した感謝の精神
 お釈迦さまは、なぜ前世の物語にことよせて、〈提婆達多が善知識に因る〉とおおせられたのでしょうか。それは、お釈迦さまのような澄みきった心の持ち主ともなれば、よいこともわるいことも、すべてが悟りの因となるからです。それゆえ、天地の万物にたいし、身のまわりに起こるすべてのことがらにたいし、ご自分の悟りを助けてくれるものとして、自然と感謝のお気持をもたれるのです。

 この〈よいできごとも、わるいできごとも、すべて悟りを深める因として受けとり、それに感謝する〉という徹底したご精神は、われわれが深く学ばなければならないところであります。そして、これがこの品の前半の要点の第一であります。

 また、なぜ提婆達多のような悪人にも成仏の保証をあたえられたのでしょうか。たとえ今世における提婆達多の悪事が、お釈迦さまのお悟りを深める因となったからとて、本質的にはなにも提婆達多の功績ではありません。提婆達多の〈悪〉が、それによって帳消しにされるものでもありません。ですから、提婆達多にたいする〈感謝〉と〈授記〉のあいだには、なんらの関連はないのです。

 お釈迦さまは、まえからくりかえしてお説きになってこられた〈すべての人間は平等に仏性をもっている〉という真実を、人びとがアッとおどろくような劇的な形をとって、人びとの胸につよく印象づけるために、とつぜん提婆達多の例をもちだされたのです。

 まさしく、万人を仏性の自覚へみちびくための、お釈迦さまのあざやかな方便だったのです。

煩悩をどう動かすかで悪と善が分かれる
 煩悩はすべての人間がもっています。出家の修行者はその煩悩から完全に離れてしまうよう努力しなければならないのですが、ふつうの生活をしている在家のものにとっては、とうてい不可能なことです。できないことをやろうとするのは、自然の道に反します。そこで、一般大衆には、煩悩に善い方向をあたえることを教えられたのです。それが大乗の道です。たとえば、「金もうけをしたい」という煩悩に、「世の中のためにはたらく」というよい方向をあたえれば、おなじようにはたらき、おなじように金をもうけても、それが善のエネルギーになるわけです。

 提婆達多は、煩悩をそのまま行動にうつしました。それが〈悪〉というものです。ところが、大乗の教えによって煩悩を善い方向へ向ければ、たちまち善をなすことができます。悪人と善人とのちがいは、ただそれだけなのです。ですから、提婆達多も修行して、その大煩悩を善の方向へ向けかえれば、煩悩が煩悩でなくなってしまって、ついには仏になれるわけです。このことが、この品の前半から学ぶべき第二の要点です。

 つぎに、後半にうつります。

 海底の竜宮での布教からもどった文殊菩薩に、智積菩薩がその業績を賛歎し、「海中においてどのような教えを説かれましたか」と聞きますと、「ただ妙法蓮華経のみです」という答えが返ってきました。さらに「一般大衆のなかで、この教えによって、すみやかに仏の悟りを得そうな人がありますか」とたずねます。文殊菩薩が「あります。八歳になる竜王の娘がそれです」と答えます。すると、たちまちその竜王の娘があらわれて、お釈迦さまをうやうやしく礼拝するのでした。

 それを見ていた舎利弗が、おもわず口をだして、その娘にむかい「仏の悟りというものは、はかりしれないほどの年月、努力して修行を積み、六波羅蜜を完全に実践したのち、ようやく到達できるものだ。障りがおおい女人が、とうていたっしうるものではない」といいました。

 娘はそれに答えず、手にもったひとつの宝珠を仏さまにささげました。それは、三千大千世界にも値するほどの尊い珠でした。仏さまは、こころよくそれをお受けとりになりました。竜女は智積菩薩と舎利弗尊者のほうに向きなおり、「仏さまは、わたくしのささげた宝珠をすぐお受けとりくださいましたが、わたくしの成仏はそれよりも早いのですよ」といったかとおもうと、たちまち男子の姿に変わり、はるか南方の無垢世界という所で、仏となって法華経の教えを説いているありさまを現じてみせました。

 その光景をうち仰いでいた智積菩薩も、舎利弗も、その他のおおくの人びとも、ひじょうに大きな感動をおぼえ、その尊い事例を真実として心に深く受けとめたのでありました。

女人成仏
 どこの国でもだいたいおなじでしたが、むかしのインドでは、女性は男性よりはるかに劣り、まるで罪のかたまりのようなものとされ、とうてい救いがたい存在であるという牢固たる思想がありました。

 そのような女性でも、人間として最高至上の状態である〈仏〉になれるというのですから、《提婆達多品》のここのくだりは、これまたじつに画期的な大宣言だったのです。世界の歴史のうえで、男女平等が明らかに唱えられたのは、これが最初だったといわれています。

 現象としてあらわれている男女には、そのすがた形・子孫をふやすための役目・性質の特徴・はたらきのうえの得意不得意など、いろいろ先天的なちがいがあります。形のうえではそのようにちがいのある男女が、それぞれ先天的な特質を生かしあいながら、なかよく家庭をつくり、社会を運営していくところに、ほんとうの男女平等があることを忘れてはなりません。これが、倫理的な、また社会的な、男女平等の道理です。

 ところが、そういう道理は頭でわかっても、当時の人びとの心の奥にあった女性蔑視の意識は、なかなかぬぐいきれなかったのです。そこでお釈迦さまは、その道理からもう一歩奥へはいって、人間としての本質の平等を、〈仏になれる〉というこの上ない保証によってズバリと明らかにされたのです。いいかえれば、「男女にかかわらず、すべての人間は、ほんらい平等な仏性をもっているのだ」という思想を、ここで徹底せしめられたわけです。

 ひとつ気になるのは、竜女が女性としてのすがたで成仏せず、男性のすがたに変じて仏となったということでしょうが、これは当時のインドの人たちの心理を考えてみれば、すぐわかることです。女が男に変じて仏となるという劇的な表現をすれば、女性蔑視の思想にこりかたまっていた当時の大衆には、たいへん印象的であり、その意味もよくわかるからです。なにも深刻に考えることはないのです。

信の力の偉大さ
 ところで、竜宮からきた八歳の娘がたちまち仏となる……というのは、舎利弗さえ信じられないことだったのですが、このことには、つぎのような教えがこめられているのです。

 八歳の娘というのは、〈幼子のような素直な心〉を象徴したものであり、竜宮界というのは、中央の文明からはるかに離れたところを象徴しているのです。また、三千大千世界にも値する宝珠というのは、〈信〉ということにほかなりません。

 幼子のような素直な心で、仏さまの教えを信ずれば、その瞬間からわれわれは仏さまと溶けあい、一体になることができます。宇宙がわがものとなってしまうのです。ですから、〈信〉はたしかに三千大千世界に匹敵する値うちがあるのです。

 その宝珠を仏さまがすぐお受けとりになったというのは、〈信〉があれば仏さまのみ心と瞬時に直通することができるということです。そこに生まれる感応が、成仏の最短通路だということです。

 文明がすすむと、人びとは、ともすれば、りくつだけで宗教の教えをひねくりまわしたがります。理解ということはもちろんたいせつなことですが、りくつに終始していたのでは、心の奥からパッと悟るというすばらしい回心には、なかなか到達しえません。ところが、竜宮界の八歳の娘というような、幼く充分な教育も受けていないものでも、無我の心で仏さまの教えをぜったいに信ずれば、そのままほんとうの悟りの境地にはいれるわけです。

 われわれも、仏さまの教えを学ぶにあたっては、いろいろな既成の知識や、固定した観念や、身にこびりついた感情をなげうって、白紙になって受け入れることがたいせつです。このことを、この《提婆達多品》からつぎの《勧持品第十三》にかけての一連の女人成仏物語から、しっかり受けとめなければならないのです。