妙法蓮華経 勧持品第十三

 この品のはじめのほうは、お釈迦さまの養母であった摩訶波闍波提比丘尼と、妻であった耶輸陀羅比丘尼が授記されるくだりです。ここで、さきの竜女の物語を受けて、〈女人成仏〉のしめくくりがつくわけですが、このふたりの比丘尼のように、教養も高く、徳も積み、しかもお釈迦さまから直接教えを受けた婦人が、なぜ最後まで授記されず、文殊師利から教えを受けた、いわば孫弟子であり、しかも異国の娘である竜女のほうがさきに授記されたのか……これにはつぎの二つの教えがこめられていると受けとるべきです。

白紙の心で法を素直に受けとる
 第一は、まえの阿難・羅羅(らごら)の場合とおなじケースです。お釈迦さまを赤ちゃんのときから手塩にかけて育てたとか、かつて夫人として子までもうけた仲であるとか、そういうあまりにも身近な人の教化のむずかしさを、ここで教えられているのです。

 竜女と文殊菩薩のように、たんなる師弟のあいだがらであれば、むしろすらすらと法を受け入れることができるのにたいして、指導者とごく身近なあいだがらにある母や妻は、肉親としての感情がわざわいして、かえって法の受け入れがスムーズにいかないことが、一般的にはおおいにありうるのです。

 そのようなことを教えるために、わざと授記を遅らされたものと解することができます。したがって、なにもこのふたりの比丘が竜女に劣っていたのではけっしてないわけです。

 第二に、「教えを正しく伝えるかぎりは、だれが伝えようと問題ではない。また、それを素直に受けとるかぎりは、教育や教養のあるなしは問題ではない。みんな仏の悟りを得られるのだ」ということが、教えられているのです。お釈迦さまの直接のお弟子ではなくても、何千年も後世の人間であっても、またどんな国、どんな民族に属する人であっても、そんなことは一切問題ではなく、白紙の心で法を素直に受けとれば、それで救われるのだということです。現代のわれわれにとって、ひじょうにありがたい教えだとおもいます。

菩薩の弘教の誓い
 さて、《勧持品》の中心となるのは、このあとのほうで、法華経のこれまでの説法に深く感動し、とくに《提婆達多品》において〈すべての人間は平等に仏性をもっている〉という真実を現実に即して教えられた菩薩たちが、このすばらしい教えをいのちをかけて守護し、実践し、説きひろめることを、力づよく誓う段であります。

 〈勧持〉というのは、〈受持を勧める〉という意味ですが、この品では、ひとに勧めることばはほとんどのべられていず、みずからの決意を誓うことばに終始しています。ひとに勧めるには、まず自分自身に固い決意ができていなければならず、また自分自身が実践してみせなければ、ほんとうにひとをみちびくことはできないわけですから、この《勧持品》という題名もなかなか意味が深いといわなければなりません。

勧持品二十行の偈
 この品でとくにだいじなところは、最後にある、いわゆる〈勧持品二十行の偈〉(むかしの漢字だけの経文には、四句を一行にして二十行に書かれていたため、こう呼ばれた)です。日蓮聖人が、この偈にのべられていることが、ひとつのこらずご自分の身にあらわれてきたことによって、「われこそ末法の世に法華経を説きひろめる使命をもって生まれたものだ」という自覚を得られたというのは、有名な話です。その二十行の偈の大意は、およそつぎのとおりです。

 「わたくしどもは、仏さまを心から敬っておりますから、仏さまが最高の教えであるとお説きになるこのお経を、仏さまとおなじように敬います。それゆえに、この法華経を守り、説きひろめるためには、外部から加えられるもろもろの迫害や困難をじっと忍びます。わたくしどもは、命など惜しいとはおもいません(我身命を愛せず)。ただ、この無上の教えに触れない人がひとりでもいることが、なによりも惜しいのでございます(但無上道を惜む)。

 世間の一般大衆の無理解からくる軽蔑も、他の宗派の専門家たちの敵意からくる迫害も、高い地位をかさに着てこの教えを意識的に無視したりおしつぶそうとしたりする人の力をも、すべておそれはばかることなく、どんなところへでもいってこの法を説きましょう。

 わたくしどもは、まさしく世尊の使いでございます(我は是れ世尊の使なり)。誓って全力をつくし、正しく法を説きひろめます。仏さま、どうぞ心安らかにおぼしめしくださいませ」

三類の強敵
 ここに、法華経にたいする三種の大敵があげられています。現代は信教の自由の世の中ですから、二千年前のインドにおいて法華経を信ずるグループが受けたような、あるいは七百年前に日蓮聖人が体験されたような迫害はありませんが、現代的な形において、やはり似たようなものが存在します。

 第一を〈俗衆増上慢〉といって、《法華経》を読んだこともなく、内容もほとんど知らないくせに、それを独善的な教えだと非難したり、その信者を軽蔑したりする一般大衆です。これは、過去における法華経信者にも一半の罪があるわけですから、われわれは、それを反省し、法華経のみを独善的にふりかざしたり、政治的に利用したり、あまりにも現世利益的に説くことをつつしみ、あくまでもその本義にのっとって、おだやかさのなかに芯のつよさのこもった、信仰者らしい態度でそれを説かねばならないのであります。

 第二を〈道門増上慢〉といって、他宗教・他宗派の人たちが、あたまから敵意をもって、法華経の真意を理解しようとしない態度です。宗教とくに仏教のだいじな精神のひとつに、寛容ということがあります。過ちをおかしたものをもゆるし、すべての人をいだきとるのが宗教です。

 それなのに、教義の表面における相違や、信仰上の所作のちがいによって、感情的に他宗教・他宗派を敵視するのは宗教者とはいえないのです。

 そういう人たちにたいして、もしわれわれ法華経行者がめくじらをたてて抗争するならば、われわれ自身が寛容の精神をふみにじることになります。どこまでも忍辱の態度をもって、そのような人たちが宗教の本義にめざめるように、粘りづよい努力をつづけねばならないのです。

 第三は、〈僣聖増上慢〉といって、宗教界・学界において高い地位にあり、世の尊敬を受けている人が、その状態に陶酔し、あるいはその地位を守ろうとして、正しい教えをないがしろにすることです。ほんとうにえらい人だったら、「これこそ真実の教えだ」と知ったなら、敢然としてそれを支持するはずですが、心の狭い人は、えてして新しくうちだされた教えにそっぽを向いたり、よりすぐれた教えをけむたがったりするものです。そういう場合、「あの人はえらい人(聖)だ」という世間の信用や尊敬を意識的に利用しがちで、その影響力はたいへん大きなものがありますから、この〈僣聖増上慢〉は三つの増上慢のうちでもっとも悪質なものとされています。

 われわれは、なにもまっこうからそういう増上慢に対抗する必要はなく、自分の信ずる真実の教えを、あくまでも正道を踏んで広宣流布していけばいいのです。真実の教えは不滅だからです。一方、もしわれわれがそのような地位になったとしたら、けっしてそのような増上慢におちいることなく、つねにみずみずしい頭脳と、柔軟な心をもって、若い勢力を受け入れ、消化するように心がけねばならないとおもいます。

不惜身命
 この偈のなかにある〈我身命を愛せず 但無上道を惜む〉というすばらしい対句から、法華経行者の合言葉である〈不惜身命〉が生まれました。

 もちろん現代人の〈不惜身命〉は、生命のものを惜しまないというのではなく、自分の個人的な利益を意に介しないということになりましょう。すなわち「時間や、労力などはすこしも惜しくない。また、世間の人たちがどんな目で見ようと、どんなことをいおうと、すこしも恐れはばかることはない」……ということです。

 なぜそういう気持になるのかといいますと、真理(妙法)を惜しむからです。この無上の教えに触れない人がひとりでものこっていることが、惜しまれてならないからです。それぐらいの純粋な気持になってこそ、ほんとうの法華経の行者ということができるのです。