妙法蓮華経 法師品第十

法師とは
 法師というのは、出家の僧侶だけではありません。ひとのために仏法を説く人はすべて法師です。この品は、そういう法師の心がまえ、とくに末世のわれわれがどんな気持で法を説かねばならないか、また、正しく法を説くものにはどのような功徳があるかを示されたもので、われわれの信仰生活に密着した、ひじょうにたいせつな章であります。

 まず注目しなければならないのは、お釈迦さまの説法の直接の相手が、この品から一変して、菩薩になるということです。いままでは、声聞・縁覚と菩薩は別物だという抜きがたい考えが人びとの胸に横たわっていたのですが、《授学無学人記品第九》までの説法においてお釈迦さまは、「そういう区別はほんらいないのであって、みんなが菩薩であり、みんなが仏となる道を歩んでいるのだ」とくりかえして力説され、その証拠として、おおくの声聞(縁覚をふくんだ意味の声聞)たちに授記されたのです。

 ですから、これからさき仏さまの教えを聞くものは、すべてが菩薩だということになります。つまり、説法を聞いている人間はまえとおなじでも、聞く気持が一変し、したがって人間としての自覚が一変したわけです。それゆえ、すべてが菩薩となり、お釈迦さまの呼びかけも、これまでの「舎利弗よ」・「魔訶迦葉よ」・「もろもろの比丘よ」などから、「薬王菩薩よ」・「文殊菩薩よ」・「もろもろの菩薩よ」などへと変わるわけです。

一念随喜
 まずお釈迦さまは、「もしわたしが説く妙法華経の一偈一句でも聞いて、一瞬のあいだでも『ああ、ありがたい』と心からおもうものがあったら、わたしはその人に成仏の保証を授けましょう。その人は、かならず仏の悟りを得るにちがいないからです」とお説きになります。ふつうの世間においても、偉大なものにたいして素直な感動をおぼえる人こそ大成することは、おおくの実例がそれを示しています。感動や感激がなく、実利一点張りでものごとにたちむかう人は、こぢんまりした成功や、小さく安定した地位を得ることはあっても、いわゆる大物になることはできません。歴史にのこるような仕事をすることはできません。

 ましてや信仰生活においてをやです。仏の教えは、偉大なるもののなかでも、もっとも偉大なるものです。その仏の教えを聞いて素直に感動し、素直に信ずるようならば、その人はかならず無限に高められる要因をもつ人です。

願生
 なぜならその人は、〈衆生を哀愍し願って此の間に生れ〉ということだからです。つまり、菩薩は仏になることのできる身でありながら、浄土に生まれる果報を捨てて、衆生をあわれむがゆえに、みずから願って此の間(人間)に生まれるというのです。善悪の業によって生まれ変わるのではなく、衆生を救おうという願いと、慈悲心によって生まれ変わってくるのです。

 ですから、〈自分は菩薩としてこの世に生まれて来たのだ〉という自覚を持ち、菩薩としての行ないをすることはだれにもできます。なぜなら仏・菩薩は、自分の意志のとおり、どんな身にもなり、どんな所にも生ずることができるからです。つまり、どのようにも〈化身〉することができるからです。したがって、この世において、心から法華経の教えを受持し、一身をささげてそれを説きひろめている人は、現実の身は、他と変わらぬ凡夫のように見えても、それは仏・菩薩が、この世界を救うために化身してきているのだ、とおもわなければなりません。そして、そのような人には最大の尊敬をはらわなければならないのです。

 さらに、われわれ自身がそれを自覚することも大切です。そのような自覚はけっして増上慢ではなく、聖なる自覚であります。ほんとうにその聖なる自覚をもてば、もうみっともない所行などできなくなります。ひとりでに人のため世のためになる生きかたをせざるを得なくなります。たんに消極的な清浄さだけでなく、心の底からにじみでてくるなにものかに動かされて、自然と利他の行ないと法華経の弘通に献身せざるをえなくなるのです。それが、とりもなおさず菩薩の境地であります。

随喜を伸ばす供養と修行
 このような菩薩としての自覚は、ほんの一念に「ありたがい」という喜びをおぼえた〈一念随喜〉を、一念で終らせることなく持続させていくことによって、より確かなものとなるのです。つまり、その一念を育てて大きくし、心に定着させてこそ、〈一念随喜〉というものはその真価を発揮するのです。

 では、〈一念随喜〉を育てるものはなにか……それは供養と修行です。

 供養というのは、仏さまとその教えにたいする感謝のまごころをささげ、礼拝その他の行によってそのまごころをあらわすことです。

五種法師
 修行とは、どんなことをすればよいのか……。
第一に、教えを受持していく決意を念々に新たにすること(受持)。
第二に、教えをくりかえして学ぶこと(読)。
第三に、それを誦んじることができるほど心に植えつけること(誦)。
第四に、ひとのために解説してあげること(解説)。
第五に、その教えが世にひろまるように、あらゆる努力をすること(書写)。

 この受持・読・誦・解説・書写を〈五種法師〉といって、法華経の教えに帰依するものがぜひ実践しなければならぬ五つの行を示されたものです。この五要素のうち一つでも欠けたら、真の法華経行者とはいえないわけです。

如来の使い
 この五つの行のなかで〈ひとのために説く〉・〈教えを世にひろめる〉という積極的な行動をとくに強調し、それでなければ人間社会は救われぬのだと説かれるのが、法華経の大きな特色ですが、この品にも、〈我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況んや大衆の中に於て広く人の為に説かんをや〉とおおせられているのです。このおことばが、この品の第一の要点であるといっていいでしょう。

衣・座・室の三軌
 それならば、どんな心がまえでその積極的な布教活動をすればよいのか……それをつぎの〈衣・座・室の三軌〉でハッキリ示されています。これがこの品の第二の要点です。軌とは軌道の軌で、正しい道という意味です。

 原文のままをあげれば、〈若し善男子・善女人あって、如来の滅後に四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば、云何してか説くべき。是の善男子・善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし〉とあります。

 この〈如来の室に入り〉・〈如来の衣を著〉・〈如来の座に坐して〉という三つは、たんに教えとして重大であるばかりでなく、じつにありがたい、尊いおことばであることを、しみじみと感じなければなりません。まことに、もったいないおことばです。

 その三軌の意味は、すぐあとで、〈如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり。如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは一切法空是れなり〉と簡潔に解説されています。すなわち、〈慈悲の心〉と〈柔和忍辱の態度〉と〈空を悟った智慧〉の三本立てで、法を説かねばならぬと教えられるのです。

 このうち、〈慈悲の心〉と〈柔和忍辱の態度〉については、もはや説明の要もありますまい。

 最後の〈空〉をどう受けとるべきか……ここにくりかえして説明しておきましょう。

 〈空〉の受けとりかたには、およそ二とおりあります。まず第一は、諸法は空であると観じることすなわち、すべての現象は〈空〉であって、仮りのあらわれにすぎないものである、と見ることです。それは、もちろん正しい見かたではありますけれども、そういう見方だけにとどまっていたのでは、生きた人間の救いにはなりません。

 そこで、われわれは、その〈空〉をより積極的に考えなければならないのです。すべてのものごとが〈空〉であるということは、この世に何も存在しない、無であるということではありません。因と縁の和合によってたしかに存在しているのです。ただ永遠不変で固定したものはなにもないということです。ですから、よい現象を望むならば、よい因となりよい縁となればいいのです。

 ところで、《無量義経説法品》に、〈応当に一切諸法は自ら本・来・今、性相空寂にして無大・無小・無生・無滅・非住・非動・不進・不退、猶お虚空の如く二法あることなしと観察すべし。而るに諸の衆生、虚妄に是は此是は彼、是は得是は失と横計して、不善の念を起し衆の悪業を造って六趣に輪廻し〉とあるように、すべてのものごとは、本来固定した差別のない、平等で大調和しているものなのです。つまり現象に善も悪もないのです。しかし凡夫にはそうは見えずに、差別でものを見て、不善の心を起こして苦しみを味わうのです。つまり、差別でものを見て、苦しんでいるのは凡夫のまちがいであって、本来すべてのものごとすべての存在は、差別もなく、平等で大調和したものなのです。別のことばでいえば、すべてのものは、あるべくしてあるのです。われわれ人間も、その例に洩れるものではありません。

 われわれは、この世に生きる必要があればこそ、こういう形をとって、生まれ出ているのです。それをおもえば、人間として生きていることの尊さ、生かされていることのありがたさを、ひしひしと感じざるをえません。と同時に、他の人びとも、この世に生きる必要があればこそ、生まれてきているのです。それをおもえば、他の人の存在の尊厳さをも認めざるをえません。

 〈空〉ということをこのように受けとめれば、生きることの尊さ、ありがたさを、しみじみと味わうことができます。すべての人びとにたいしても、おなじように生かされているきょうだいだという仲間意識が、実感として湧きあがってくるのです。さればこそ、ひとにたいして法を説くのは、〈如来の座に坐す〉すなわち徹底した〈空〉の悟りを根底にしなければならないと、教えられているのです。

 この三軌をまとめていいますと、〈ひとに法華経を説くときには、大きな慈悲心に発し、徹底した空の悟りを根底とし、柔和な態度で、しかも世の毀誉褒貶に動かされない芯のつよい心をもって説かねばならない〉という教えであります。そして、これが《法師品》の核心であるということができるのです。