無量義経 十功徳品第三

 この品には、このお経に説かれた教えを理解し、実践すれば、どんな精神的な功徳があるか、どんな善い行ないができるか、どんなに世のためひとのために役立つことができるかということが説かれてあります。
 まず大荘厳菩薩が、「この教えはどこから出て、どういう目的へむかってすすみ、どこに住みつくのでございましょうか」という質問をもうしあげたのにたいして、つぎのようにお答えになります。
 「この教えの源といえば、ほかでもありません。諸仏の心の奥から溢(あふ)れ出たものです。なにを目的として説かれたのかといえば、それは一切の人びとに最高無上の悟り( 仏の智慧)を求める心を起こさせるためです。また、この教えはどこに住みつくのかといいますと、人びとが菩薩行を行なうその実践の中にこそ住するのであります」

諸仏の願い
 諸仏の心の奥というのは、〈すべてのものの生命を、そのほんらいのすがたのとおり、ほんらいの使命とおりに生かしたい〉という願いです。これは諸仏がもっている根本の願いであって、人間もその諸仏の願いに即して生きていけば悩みもわずらいもないはずですのに、わがままな〈我〉にとらわれ、その我執にしたがって行動するために、みずから苦悩を招いているわけです。
 諸仏の悟りとは、〈この世の万物・万象がほんらいの使命のとおりに存在し生きる道を、あらゆる場合に即して悟られたものである〉ということができるのです。
 これを人間に即して、一言でいえば、〈あるがままに生きる〉というほんとうの生きかたを悟られたわけです。ところが、凡夫にはどうすれば〈あるがままに生きる〉ことができるのか、よくわかりませんので、お釈迦さまは、それぞれの人の場合に応じ、さまざまに説き分けて、それをお教えになりました。それを〈方便の教え〉といいます。
 〈方便(ほうべん)の教え〉もひじょうに尊い、ありがたいものでありますけれども、それだけでは、その人の環境や立場に変化が生ずれば、その場の事情にピタリと当てはまらないことが起こり、当惑することもありえます。

菩提心を起こさせる
 それゆえ、心ある人は当然、〈いかなる人のいかなる場合にもあてはまる最高無上の真理〉を求める心を起こすことになります。それを〈菩提心を起こす〉といいますが、この〈無量義〉の教えは、その菩提心を起こすことを目的としているのだとおおせられているわけです。

実践してこそ真価を発揮する
 つぎに、この教えはどこに住みつくのかというのは、つまり、この教えはどこにいるのがほんとうか、どこにおればもっとも真価を発揮するかということです。その住するところは、書物のなかでもありません。頭脳のなかでもありません。実践のなかにこそあるのです。実践してこそ、この教えの生命は発現するというのです。
 以上の三つのことは、たんに無量義の教えばかりでなく、あらゆる大乗の教えに共通の重大な要素ですから、ここでしっかり頭に入れておくことがかんじんです。
 それから、お釈迦さまは、この教えのもつ十の功徳をお説きになるわけですが、なかでもつぎの第一の功徳がもっともたいせつです。
 〈第一に、是の経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ、慈仁なき者には慈心を起さしめ、殺戮を好む者には大悲の心を起さしめ、嫉妬を生ずる者には随喜の心を起さしめ、愛著ある者には能捨の心を起さしめ、諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ、慢(きょうまん)多き者には持戒の心を起さしめ、瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起さしめ、懈怠を生ずる者には精進の心を起さしめ、諸の散乱の者には禅定の心を起さしめ、愚癡多き者には智慧の心を起さしめ、未だ彼を度すること能わざる者には彼を度する心を起さしめ、十悪を行ずる者には十善の心を起さしめ、有為を楽う者には無為の心を志さしめ、退心ある者には不退の心を作さしめ、有漏を為す者には無漏の心を起さしめ、煩悩多き者には除滅の心を起さしむ。善男子、是れを是の経の第一の功徳不思議の力と名く〉
 意味はもうよくおわかりのこととおもいますが、なぜ《無量義経》の教えにそのような功徳があるのかという理由を、よくわきまえておくことがたいせつだとおもいます。