《無量義経》の内容は、お釈迦さまが《妙法蓮華経》の内容をお説きになる直前に、おなじくマガダ国王舎城郊外の霊鷲山でお説きになったものです。そのあとで、ながい三昧(さんまい)にはいられ、その三昧を終えられてから、いよいよ《妙法蓮華経》を説きはじめられたのです。
そういうなりゆきから推しても、法華三部経の主軸である《妙法蓮華経》を学ぶまえに、まずこの《無量義経》を読むのが慎重な態度であることが考えられますが、じっさいに教義の内容にたちいってみても、《無量義経》からはいってこそ《妙法蓮華経》もほんとうによく理解できることを、しみじみ感じさせられます。
無量義とは
このお経の題名の〈無量義〉とはどんな意味かといいますと、〈数かぎりない意味をもった教え〉と直訳できます。そして、この《無量義経》の中で、その〈数かぎりない意味みをもった教えはただひとつの真理から出てくるのだ〉ということが説かれてあります。
そのひとつの真理というのは〈無相〉ということですが、それについて詳しくはおっしゃっておられません。それで、どうもはっきり解らないのです。では、どこでそれが解決されるのか。もちろん、次に説かれる《妙法蓮華経》においてなのです。《妙法蓮華経》で、それをあますところなくお説きになられるわけです。そして、その数かぎりない教えは、せんじつめればこの《妙法蓮華経》に説く真理に帰するのだと、ご一代のご説法の中なかでも最も中心になる教えを、ここで明らかにしていらっしゃるのです。
つまり、《無量義経》の中心である《説法品第二》は、釈尊が大荘厳菩薩の質問に対してお答えになったものですから、よほど修行を積んだ菩薩たちでなければ、しんそこから理解
できないものだったのです。さればこそ、釈尊のみ心の中には、つぎの説法の順序がちゃんと立てられてあったのです。すなわち、この《無量義経》を説かれてから、いよいよその教えの根本である〈無相〉すなわち〈実相〉ということについて、どんな人にも解るように、あらゆる角度からお説きになったのが《妙法蓮華経》にほかなりません。
つまり、そこではじめて〈究極の真理〉を一般の人びとのために説き明かされたわけです。そういうわけで、《無量義経》は、それ以前の方便経からいよいよ真実経の《妙法蓮華経》を開き出すものであり、《妙法蓮華経》もこの《無量義経》からはいってこそほんとうによく理解できるという関係から、《妙法蓮華経》の〈開経〉といわれているのです。