この品は、遠いむかしにおられた妙荘厳王という国王と、その妃の浄徳夫人と、浄蔵・浄眼というふたりの王子の物語です。
妙荘厳王の故事
妃とふたりの王子は仏法に帰依していましたが、王はほかの教えに心酔していましたので、なんとかして仏法のありがたさを知らせてあげたいとおもっていました。たまたま雲雷音宿王華智仏という仏さまが、法華経という至高の教えをお説きになることを聞き、王子たちはぜひ父の王をもさそって聴聞にゆきたいと念願し、母の妃に相談しました。すると妃は、「父上の心を動かすには、おまえたちが奇跡をあらわしてみせるほかはありません」と示唆しました。
そこで、王子たちは父王の前にゆき、空中に飛びあがって、空の上を歩いたり、頭や足の先から水や火をふきだしたり、地のなかに自由自在にもぐったり、さまざまな不思議を見せました。父王はびっくりして、「いったいだれにそんな神通力を習ったのか」と聞きますと、「法華経という教えをお説きになる雲雷音宿王華智仏がわたくしどもの師です」と答えます。王は、「その仏さまにわたしもお目にかかってみたい」といいだしました。もちろん、王子たちは大喜びしましたが、この機会をのがさず、出家してずっと仏さまのみもとで仏道を学びたいと、母の妃にお願いし、それをゆるされます。
こうして、王子たちの感化によって、王も、妃も、群臣や女官たちも、またおおくの国民も、仏さまのみもとへ法を聞きにまいりました。仏さまは、ただちに妙荘厳王に「かならず仏の悟りを得るであろう」という保証をあたえられました。そこで王は、国を弟にゆずり、妃およびおおくの家来たちと共に出家したのです。
因縁あればこそ
ながいながい修行ののち、ひじょうに高い境地にたっした王は、仏さまにむかって、「わたくしがこうなりましたのも、ふたりの子どものおかげでございます」ともうしあげると、仏さまも「そのとおりです。善い友・善い指導者に会うことは、まことに尊い因縁です。その教化と指導があればこそ、仏を見ることもできれば、仏の智慧を得たいという発心もするのです」とおおせになりました。
ほんとうに〈因縁〉というものはたいせつに考えなければなりません。われわれも前世で妙法を実践し、その徳を〈因〉として、今世でよい〈縁〉(善知識)に会えたからこそ、今日こうして法華経を学べるのです。
ですから、今世に一人でも多くの人に妙法をお伝えしていくことが、来世でまた、この妙法に会うことができることの最大の保証となるわけです。このことを妙荘厳王の本事(因縁)から知るということが、この品の第一の要点であります。
身近なひとをみちびくには
二王子が演じた奇跡というのは、仏法を学び、信ずることによって、人格が一変し、したがって日常の行ないがすっかり変わったことを意味しているのです。そして、そういう行ないを父に見せたというのは、実際の行為によって仏法の真価を証明し、父の発心を誘いだしたということにほかなりません。
ひとを仏法にみちびくには、それを説いてあげるのもむろんたいせつなことですが、身をもってする実証が第一の決め手となります。とくに、家族や職場の人をみちびくには、これを欠いてはならないのです。どんなに法を説いてみても、本人の行ないが感心したものでなければ、だれもなっとくしないばかりか、かえって仏法を軽蔑したり、疑ったりすることになりかねません。この説話には、そのような意味がこめられているわけです。
実証をすすめた母の妃も賢明でしたが、既成観念を白紙にもどして、真理(妙法)に耳を傾けようとした父の王もえらい人でした。このような柔軟な心の持ち主こそ、妙法をつかむことができる人です。
指導的立場の人の信仰
もうひとつ重大な問題が、この品には教えられています。それは、王の信仰が、群臣・眷属および国民までも感化したということです。こういう指導的立場にある人が正しい信仰にはいった場合、その影響がどれほど大きなものであるか、それは現実の問題としてよく考えなければなりません。
信仰はもともと個人の自由で、政治とか権勢とかが介入すると、不純なものになります。しかし、衆に尊敬されている指導者が正法の信仰にはいったために、おおくの人たちが自然とそれに感化されていくということは、けっして不純なことではなく、きわめて正しい影響といわなければなりません。ですから、おおくの人の上に立つ人は、どうか正しい信仰を身につけてほしいものです。もちろん、それを部下におしつける必要はありません。正法にもとづくその人の気品ある人徳は、かならずおおくの部下たちを感化せずにはおかないでしょう。このことも、この品の大きな要点であります。