この品は、無尽意菩薩がお釈釈迦さまに、「観世音菩薩はなぜ観世音という名をもたれるのですか」とおたずねしたのにたいして、そのわけをくわしくお説きになる章です。
妙法に救われ慈悲で救う
この品でたいせつなことは、ともすれば観世音菩薩は〈他力の救い〉を頼む対象のように考えられてきましたが、そうではなく、じつは〈真実の智慧〉の象徴であるということです。真実の智慧といっても厳密にいえば〈すべての現象を、空にもとらわれず、仮にもとらわれず、双方の融合相即したものとしてとらえる智慧〉すなわち〈中諦の真智〉です。これを人間に即していえば、人間の平等相をも生かし、差別相をも生かし、どんな人の、どんな場合にもピタリとあてはまる、〈自由自在の智慧〉です。諸法実相を説く法華経(妙法)そのものです。
観世音菩薩は、そのような真実の智慧の持ち主であるとともに、〈大悲代受苦(おおくのひとに代わってその苦しみを受けてあげようという大慈悲心)の持ち主でもあるのです。
われわれがほんとうに救われるには、妙法を知り、妙法をおもい、妙法にしたがって行動するよりほかはありません。また、われわれがほんとうに他を救うには、慈悲心にもとづく自己犠牲的な行動によって、その人を妙法の道へみちびくよりほかに方法はないのです。この品に、観世音菩薩を念ずることによって七難からのがれることがくわしく説かれていますが、それらはすべて、このことを教えられているのです。
そうはいっても、むかしの人はそんな抽象的なことをピタッと確実につかまえることができませんでしたので、観世音菩薩というすぐれた洞察力(世間の音を観る=世のすべての動きを知り、すべての人の欲するところを見とおす)をもち、三十三身というさまざまな姿となっていたるところにあらわれ、大慈悲心をもってあらゆる苦しみを救ってくださる、美しいやさしいお方を設定して、そのお方に心をかよわせれば、心が妙法に感応して救われる……と説かれたわけです。
観世音菩薩になりたい
ですから、現代のわれわれは、観世音菩薩というすばらしい大人格を心におもい浮かべ、「あのようになりたい」というあこがれと願いをもたねばならないのです。そのあこがれが強烈であれば、どんな苦しみがやってきてもかならずそれを乗りこえることができます。またそういう願いをもっておれば、ひとの苦しみを見れば、救いの手をさしのべずにはいられなくなります。
普門示現
この〈観世音菩薩になりたい〉という願いこそが、〈普門示現〉ということの神髄に他なりません。
〈普門示現〉の〈普〉とは、ひろくあまねく、どこにもかしこにも、という意味です。〈門〉というのはもちろん出入り口のことですが、それから転じて〈家〉という意味にもちいられます。また、〈部門〉などというように、ものごとを分類するときのひとつの区分けにももちいられます。ですから、〈普門〉というのは、〈あまねくすべての家に〉という意味もあるし、また〈人生問題のあらゆる部門に〉という意味もあるわけです。ひっくるめていえば、〈この世のいたるところに、ありとあらゆる問題と、あらゆる場面に、自由自在に〉ということになります。
つまり〈普門示現〉とは、観世音菩薩がこの世のいたるところに、あらゆる問題と、あらゆる場面にそれぞれふさわしい姿をとって自在に現われ、人びとを救い導いてくださるということを意味しているわけです。
このような観世音菩薩になりたいと願うことは、家庭において、社会において、国家において、さらに広くは世界においてそれぞれ置かれた立場にふさわしく、人びとの苦しみ・悩みに応じた具体的な救いの手をさしのべていこうと願うことです。そういう行動こそが、観世音菩薩の〈大悲代受苦〉の大慈悲心そのものであるからです。
こうした〈代受苦〉の行動を、どのような立場においてでも、どのようなささいなことでもいいから、一人でも多くのひとが実践にうつしたならば、家庭・社会はもちろんのこと、世界の平和も決して夢ではなくなるのです。そういうことですから、この〈普門示現〉ということがこの品の最大の要点になるわけであります。
徳も力も妙法とその実践から生ずる
さてこの品でもうひとつ見のがしてならないことは、観世音菩薩の広大な徳と力に感激した無尽意菩薩が、自分の首飾りをささげたところ、観世音菩薩は、すぐさま半分を釈迦牟尼世尊に、半分を多宝仏塔にささげたということです。それは、観世音菩薩の偉大な徳と力も、つまりは理としての妙法(多宝仏塔)と、それを説き実践されたお釈迦さまのおかげであるということです。これを見ても、ただ「観世音菩薩を拝めば救われる」などと考えるのが大きなまちがいであることは、明白なのであります。