妙法蓮華経 常不軽菩薩品第二十

仏性を拝むという一つの行だけで
 人間の不幸のおおもとは、「肉体だけが自分である」とおもいこんでいることです。この肉体へのとらわれがあるかぎり、なによりも自分の肉体を維持し、満足させることを第一に考え、ほかの人のことなど二の次になりますから、つい奪いあいや足のひっぱりあいなどの争いが起こり、したがって不安・悩み・苦しみなどの絶えることがないのです。

 ですから、人間を根底から救い、人類社会をほんとうに平和にするには、どうしてもこの根本のとらわれをうち破り、「人間の本質は仏性である」という真実にめざめさせなければならないのです。日常の心のもちかたや行ないについて、悪いことをやめ善いことをするように一々こまかく指導するのも、人間をよくするだいじな方法ではありますけれども、ただそれだけではなかなか効果があがりません。ところが、人間の本質が〈仏性〉であるという真実にめざめれば、ひとりでに悪いことなどできなくなります。みっともなくて、恥ずかしくて、できはしないのです。

 また、ほかのおおくの人びとについても、みんなが本仏に生かされ、仏性をもつ存在であるという根本道理にめざめるならば、おたがいがきょうだいであるという実感が湧きますから、ほんとうに仲よくすることができるわけです。

 そこで、この品において、おおむかしに常不軽菩薩という人がいて、〈ひとの仏性を拝む〉というただ一つの行をつづけることによって、自分も仏の悟りを得、おおくの人をもその悟りへみちびいた話が説かれるわけです。

 その常不軽菩薩は、人さえ見れば、「わたしはあなたを軽んじません。あなたはかならず仏になれる人だからです」といって拝みました。〈仏になれる〉というのは、つまり〈仏性がある〉ということにほかならないのですが、一般の人びとはその意味がわかりませんので、「ばかにしている」と怒って、石を投げたり、棒をふりあげたりするのです。そうされると、常不軽菩薩は走って逃げはするのですが、遠くのほうから、あいかわらずその人たちを拝んで、「あなたがたは仏になれる人たちです」と呼びかけるのでした。

 そういうただ一つのことを根気よく行なったおかげで、常不軽菩薩は、寿命が尽きてまさに死のうとするとき、法華経の教えをしっかりと悟ることができ、そのために不生不滅の仏性を自覚することができました。そして、なんどもこの世に生まれ変わりながら、その真実の教えを説きつづけ、ついに仏の境地にたちいたったのです。

 このお話をなさったのち、じつはその常不軽菩薩というのはお釈迦さまの前世の身だったことをお明かしになります。つまりお釈迦さまも、人間すべてがもっている仏性をお悟りになり、その顕現に努力をつみかさねられたからこそ、仏の境地にたっせられたのだ……というわけです。

教えを説くこともたいせつ
 その常不軽菩薩の行というのは、はじめはたんに〈人びとの仏性を拝む〉という行だけでしたが、人びとがようやく自分の仏性に気づくようになったら、こんどはそのことを〈教え〉として説かれました。そのことを、われわれも見習わなければなりません。まず〈すべての人の仏性を認め、それを拝む〉ことから出発し、それから〈真実の教えである法華経を説いて、大衆の仏性を顕現する〉ことへとすすまなければならないのです。そういう積極的な努力をしてこそ、自分も悟りを深めることができますし、世の中もほんとうによくなるのです。

粘りづよい努力
 その努力も、常不軽菩薩のように、いつも変わらぬ信念をもって、気長に、粘りづよく行なわなければなりません。すこしやってみて、おもわしい結果があらわれないからといって、すぐあきらめてしまったり、現実の世界のあまりのひどさに失望してさじを投げてしまったりしたのでは、自分も、世の中も、ついに救われることはないでしょう。

 人間の仏性は不生不滅なのですから、「なんども生き変わり死に変わりしながら、あくまでもこの偉大な仕事をしつづけるのだ」という、不動の決意をもたなければならないのです。その点においても、常不軽菩薩は尊い手本であるといわなければなりません。