まえの《勧持品第十三》において、菩薩たちが、今後のさまざまな迫害を予想し、それにたいする覚悟をのべたのにたいして、お釈迦さまが、「いつも安らかな心で、みずからすすんで法を説け」とお教えになり、そのための具体的な心がまえをこまごまとお説きになり、結論として、〈法華経の教えを心から信じ、身に行なえば、いかなる困難をも超越した安らかな心境にたっすることができ、色心不二の法則によって、その安らかさは身体のうえにも、生活のうえにもあらわれてくる〉ということを保証されるのが、この品です。
四安楽行
文殊菩薩が、「険悪なのちの世において、どうすればよくこの法華経を説くことができるのでございましょうか」と釈尊に質問しました。その質問に釈尊がお答えになったのが、菩薩にとっての四つの基本的な心得(四安楽行)というわけです。
その第一は〈身安楽行〉といい、自分自身の身のふるまいについての基本的な心得( 行処)と、世間の人びととの交際において必要な基本的な心得(親近処)とからなります。
第二は〈口安楽行〉といい、ことば遣いや、言ってはならないことなどが戒められます。
第三は〈意安楽行〉といい、嫉妬や、へつらい、他者への悪意をなくし、常に安らかな意で法を説きなさいと戒められます。
第四は〈誓願安楽行〉といい、すべての人を仏の道へと導こうという誓願をおこし、その誓願に向ってまっしぐらに行じなさいと、おさとしくださるのです。
髻中明珠の譬え
この品のお説法のなかに、〈法華七諭〉の第六である〈髻中明珠の譬え〉があります。
その大意は、
「ひじょうにつよいある国の王が、命令に従わぬ国々をつぎつぎに討伐しました。それらの戦いにてがらをたてた将士には、領地や、田畑や、王が手足につけている装飾品など、いろいろな宝ものをほうびとしてあたえましたが、王の髪の「まげ」のなかに結いこめてある宝玉だけは、だれにもあたえませんでした。それがあまりにも尊いものであるために、もしそれをあたえたならば、もらった人も、ほかの家来たちも、ただびっくりし、当惑するにきまっているからです。
わたしが、法華経をなかなか説かなかったのは、ちょうどこのような理由によるものです。これまでさまざまな教えをみなさんに説いてきました。それによって、心が安定して動揺しない境地や、人生苦から超越した境地や、すべての煩悩を除きつくした境地など、いろいろ貴重なものをほうびにあたえました。しかし、法華経の教えだけはなかなか説きませんでした。説いてみても、みなさんが当惑するばかりだったからです。
ところが、この王は、最終的にすばらしい大功をたてたものがあると、「まげ」のなかに結いこめたその宝玉を惜しげもなくあたえるのですが、わたしもその王のとおりであって、すでにみなさんの境地がひじょうに高まってきましたので、最後のほうびとして、いまこそ最高の教えである法華経を説いてあげるのです」
精神はとらえにくいが最も大切
この譬えの表面だけを読みますと、「法華経は最高至上の教えである」という賛歎と、「だから、めったなことでは説かなかったのだ」という理由づけのことばとしか受けとれませんが、やはりこのなかには人生にたいする教訓がいろいろとふくまれているのです。
第一に、ほかの宝ものは、王の手足につけたものや、たんなる所有物にすぎませんでしたが、その宝玉( 明珠)だけは、王の〈頭にあるもの〉でした。頭とは精神の宿るところであり、からだ全体を支配するところです。手足などはふつうの人でも自由に使いこなせますが、精神というものは、いちばん貴重なものでありながら、つかまえどころがないだけに、なかなかの難物です。
しかし、この精神というものをしっかりとらえ、調御し、高めていかないかぎり、りっぱな人間とはいえないのです。人生の至高の目的は、〈頭にあるもの〉すなわち精神をよりよくしていき、ついには人格を完成すること( 仏になること)にあるのだということを、この譬えからくみとらねばなりません。
最高の奥義は最後に
第二に、法華経は、人間でいえばちょうど精神にあたるようなもので、最高の奥義であるために、それを理解できるほどに境地がすすんでいない人にあたえようとすれば、かえって混乱や疑惑を生ずる……ということが、この譬えにのべられていますが、これは世俗のいろいろな学問や技術の勉強についても、おなじことがいえるのです。
初歩の人に、はじめから最高の奥義を教えようとすれば、聞いた人はなんのことやらわからず、とうていついていけないので、途中からやめてしまう人が続出するでしょう。ですから、教える側にしてみれば、ごくごく初歩のやさしいことからはいって、だんだんに修練を積ませたのち、いちばん最後の段階で、ギリギリ最高の奥義を教えなければなりません。そのことが、この譬えのなかに暗示されているのです。
基礎的な修行の重要さ
これをひっくりかえして、修行する側の心得として見れば、〈基礎的な修行こそ、最高の奥義にたっするために必要欠くべからざるものである〉ということになります。現代の人間、とくに高等教育を受けた若い人たちは、とかくこうした基礎的な修行をいやがり、いきなり高いところへゆきたがります。そのため、人間としても、職業人としても、中途半端な存在となってしまうのです。基礎的な修行こそ、大成のための絶対必要な条件であることを、この譬えのなかから学びとらなければならぬとおもいます。