まえの《法師品第十》において、お釈迦さまは、末世において法華経の教えを説くものの心がまえと、正しくその教えを説くものが受けるであろう功徳をお説きになりました。
多宝如来の証明
それを説き終えられたとたんに、目の前の地上から、光明さんぜんたる大塔が瞬時に浮かびいで、天空高くそびえたちました。しかも、その宝塔のなかから大音声がひびきわたり、「すばらしい。まことにすばらしい。釈迦牟尼世尊は、すべての衆生がひとしく仏となることができると見とおす智慧( 平等大慧)にもとづき、すべての人に菩薩の道を示す教え( 教菩薩法)であり、もろもろの仏が秘要として護って(仏所護念)こられた妙法蓮華の教えを、大衆のためにお説きになりました。そのとおりです。釈迦牟尼世尊がお説きになることは、すべて真実であります」とほめたたえ、その教えの真実を証明されるのでした。
人びとはいいしれぬありがたさに打たれていましたが、そのなかの大楽説菩薩が、「どういうわけで、この宝塔が地から湧きだし、このような大音声が出されたのでしょうか」とおうかがいしますと、お釈迦さまは、〈此の宝塔の中に如来の全身います〉とお答えになりました。
宝塔は仏性の象徴
このおことばの意味はじつに重大です。如来とは〈真如から来た人〉という意味ですから、如来の全身がこの塔のなかにいらっしゃるというのは、〈真如の完全なすがたがここにある〉という意味であります。
真如とは、この宇宙のすべてのものごとを存在たらしめている〈法〉そのもののことです。ほかのことばでいえば〈根源の法〉であり、〈究極の真理〉です。これを人間にあてはめていえば、そのほんらいのすがたである〈仏性〉です。したがって、この宝塔というのは、〈仏性〉の象徴にほかならないのです。
その塔が天から降ってくるのではなく、地から湧きだしたというのが、これまたたいせつなことです。〈天〉は人間からはなれた理想の世界をいい、〈地〉は人間と密着した現実の世界をいいます。したがって、仏性は他(天)からあたえられるものではなく、現実のわれわれ自身(地)のなかにあるのであるから、われわれはただそれを自覚すればよいのだということが、ここに示されているのです。
妙法蓮華の教えは、この真理にもとづき、万人平等の仏性を自覚し、顕現することによって、この世を救おうという、いわゆる菩薩の道の教えであり、諸仏がもっともだいじな教えとして護念されるものであります。それをお釈迦さまがはじめて大衆のためにお説きになったのですから、これはいくら賞賛しても賞賛しきれない聖業であり、人類にとって万世にわたる一大事であったわけです。ですから、仏性の大塔のなかから、このような大音声がひびきわたったのであります。
つぎにお釈迦さまは、「宝塔の主であられるのは、はるかな東方の世界に出られた多宝如来という仏さまで、その仏さまがまだ菩薩の時代に、『自分が仏となったのち、いずれの世界においてでも法華経が説かれるならば、自分はその教えを聞くために、説法会の前に大塔を出現させ、その教えの真実を証明し、賞賛しよう』という大誓願を立てられ、仏となって世を去られるとき、『わたしの全身を供養しようとおもうならば、ひとつの大塔を建てよ』と遺言なさった」と、おのべになります。
多宝如来とは、「はるかな東方の国の仏さま」というおことばでわかるように、じっさいにこの世に出られた、すがた形のある仏さまではありません。〈真如そのもの〉・〈真理の全相(真理の完全な相)〉を多宝如来ともうしあげるのです。真如そのものとか真理の完全な相などといっても、当時の一般大衆にはのみこめなかったために、如来さまという人間らしい形をつけてお釈迦さまはお説きになったわけです。
いつでも、どこでも変わりのないのが真如としての究極の真理です。この宇宙がはじまって以来[いつも]、そして宇宙の[どこにいっても]、その真理は変わりなく存在しているのです。その真理は、いろいろな形をとってあらわれるわけですが、そのおおくのあらわれをひっくるめた統一的なすがたを、多宝如来に象徴してあるのです。ですから、「多くの宝をあつめた如来」と名づけられてあるわけです。
ところで、多宝如来のおことばの〈大塔を建てよ〉というのは、「すべてのものの仏性を顕現せよ」ということです。それが多宝如来( 究極の真理)にたいする最大の供養であります。なぜならば、真如としての究極の真理は[そのとおりに]顕現されることを欲しているのであって、すべてのもの仏性を顕現することが真理の全き相を世にあらわすことにほかならないからです。
十方分身諸仏の来集
そこでお釈迦さまは、大楽説菩薩をはじめとする一同の願いによって、十方世界のご自分の分身をお集めになります。すると、娑婆国土ばかりでなく、全宇宙が仏さまの分身で充満してしまうのです。それを見とどけられたお釈迦さまは、スーッと空中におのぼりになって、宝塔のまえにおとどまりになります。
究極の真理を活動させるもの
そして、右手(智慧の象徴)で宝塔の扉をおひらきになりますと、そのなかに、あたかも禅定にはいったかのようにじっと身動きもされずに坐しておられる多宝如来の完全なおすがたが、ありありと拝されるのです。
ところが、多宝如来は、たちまちお口をひらかれて、「すばらしい。まことにすばらしい。よくぞ釈迦牟尼如来は、快くこの法華経をお説きくださいました」とおおせられたのです。
ここにもたいへん重大なことが象徴されています。真理の全相である多宝如来がじっと身動きもされずに坐しておられるというのは、〈究極の真理は永久不変である〉ということです。しかし、禅定にはいったかのように動かないものには、われわれの人生を変える力がありません。それを説く人があり、それが人間の心のなかへ動きだしてきたとき、はじめて人間世界の救いとなるのです。だからこそ、究極の真理そのものである多宝如来が、その真理を説いてそれに動きをあたえるはたらきをなさったお釈迦さまを、ほめたたえられるのです。ということはつまり、〈究極の真理は、それが説かれ、おおくの人に理解され、活用されることを望んでいる〉のだということを、このように表現されているわけです。
二仏同坐
そのとき多宝仏は、獅子座のまんなかにおすわりになっておられたおん身を、半ばおずらしになり、「釈迦牟尼仏、どうぞこの座におつきください」とおおせられ、釈迦牟尼仏はすぐ宝塔のなかにはいられて、多宝仏とならんでおすわりになりました。
この光景にも、ひじょうにたいせつなことが暗示されています。
第一に、おおくの人びとが釈迦牟尼如来を、生き死にする肉体をもたれた仏さまとばかりおもいこんでいる迷いをうち破り、多宝如来とおなじように、生滅しながらも生滅しない仏であることを示されているのです。これは、あとの《如来寿量品第十六》で明らかにされることで、ここではまだ暗示だけにとどまっています。
第二に、法身の仏(多宝仏)と、応身の仏(釈迦牟尼仏)とは同格であることを示されているのです。すなわち、〈真如そのもの〉と〈真如を説く人〉は、おなじように尊い存在であるという教えです。
令法久住
多宝・釈迦牟尼の二如来が、空中に浮かんだ宝塔の獅子座におすわりになっているのを拝した大衆は、「仏さまはあのような高く遠いところにいらっしゃる。われわれも、如来の神力によって、虚空のあそこまで引き上げていただきたいものだ」という思いを起こしました。その気持を察せられたお釈迦さまは、すぐさま一同を虚空へ引き上げておあげになりました。そして「いまこそ、もろもろの大衆に告げます。わたしが世を去ったのち、しっかりとこの教えを護持し、読誦するのは、だれだれですか。その人は、いまわたしの前で誓いのことばをのべなさい。
そもそも多宝如来は、ひさしく滅度しておられたのに、法華経の説かれるところにはかならず出現してそれを証明しようという誓願によって、こうしておすがたをあらわされ、大音声を発せられました。この多宝如来と、わたしと、わたしの分身の諸仏、この三者のもつ意味をよくよく認識しなければなりません。
もろもろの弟子たちよ。だれがこの教えをよく護ってくれますか。いまこそ大願を起こして、この教えを未来永劫にのこしてほしいものです。もしこの法華経の教えをよく護ることのできる人があったならば、それがそのまま、わたしと多宝如来を供養することになるのです」とおおせられたのです。このお釈迦さまの呼びかけを〈令法久住〉といいます。
六難九易
このように衆生に法華経の広宣流布を呼びかけ、励まされると同時に、お釈迦さまの滅後に法華経を説き弘めることが、計り知れないほど困難であるがために、法華経弘通の功徳がいかに甚大であるかを説かれました。これを〈六難九易〉といいます。六難とは、説経難・書持難・暫読難・説法難・聴受難・奉持難をいいます。
二処三会
これまでの説法会は、霊鷲山の山上で行なわれていました。そして、これから《嘱累品第二十二》の終わりまでは虚空において行なわれ、それからふたたび山上にもどります。こうして法華経の説法会は、山上と虚空の二か所で、三回にわたって行なわれますので、〈二処三会〉といわれています。これにはやはり深い意味があるのです。
山上は現実、虚空は理想です。どのような教えにしても、はじめは現実に即した教えでないと、とっつきにくくもあるし、理解もむずかしいのです。ですから仏さまも、はじめは、どうしたら迷いを去り、人生苦からのがれられるかという、現実的な問題からお説きになったのです。
法華経だけを見ても、最初のほうでは、この世の成り立ちはどうなっているのか、人間とはいったいどんなものであるか、人間と人間との関係はどうあるのが正しいかということを見きわめる智慧をお説きになりました。
そういう智慧が身についてきたら、いよいよ理想の境地を示さなければなりません。すなわち、久遠本仏と一体となる境地であります。これは、凡夫にとって現実の生活ではなかなかつかみにくい境地であります。僧伽の仲間(正しい宗教団体)に入り、さまざまの信仰上の修行なしではなかなか悟ることができません。つまり、虚空にのぼってこそ到達しうる境地です。
その悟りにたっしたら、こんどはまた現実にたちもどって、その悟りをこの世で実践にうつし、またおおくの人びとにおよぼしていかなければ、人類全体の救いは実現せず、したがって自分個人の救いも完成されません。そこで、説法会もふたたび現実にもどるわけです。
《法華経》は、このような、じつに合理的な構成になっているのであります。