妙法蓮華経 五百弟子受記品第八

 この品は、富楼那をはじめとするたくさんの高弟たちに、「かならず仏の境地にたっするであろう」という保証があたえられる章です。

 富楼那は、法明如来という名の仏となり、その他の人たちは、すべて普明如来という名の仏となるだろうと保証され、また、〈余の諸の声聞衆も 亦当に復是の如くなるべし〉とおおせられています。すなわち、仏の教えを聞いて悟りを得ようと一心につとめるものは、いつかはのこらず仏の悟りを得て普明如来になるのだと授記されたのです。

 しかも、摩訶迦葉に〈其の此の会に在らざるは 汝当に為に宣説すべし(このことを伝えよ)〉と命ぜられています。これは、直接にはさきに《方便品》の説法の途中で座を立っていった五千起去の人たちをさしているのだといわれています。つまり、「一度仏の教えを聞く縁をもったものは、一時は退転することがあるかもしれないが、しかしその縁はかならずあとで芽をふいて、いつかは仏道にたちもどり、仏の悟りを得るであろう」というわけです。

 さらにまた、後世の仏弟子であるわれわれも、法華経の教えを学び、実践していけば、かならず普明如来になれるということになります。

みんな普明如来に
 普(ふ)とは普(あまね)くということですから、普明如来とは、世の中をあまねく光明化する如来ということです。この品の説法のなかに〈転次して授記せん〉というおことばがあり、それは、甲が乙へ、乙が丙へとつぎつぎに授記するだろうという意味ですから、仏の教えを学び行ずるわれわれは、いつかはだれかに授記されるわけですし、まただれかに授記する義務をもっているのです。このようにして、しだいしだいに普明如来がふえてくれば、世の中は光明いっぱいの寂光土と化していくわけです。

 そういうすばらしい保証がこの品の眼目であると、受けとることができます。いや、そう受けとらなければなりますまい。

衣裏繋珠(えりけいじゅ)の譬え
 さて、お釈迦さまから直接に仏となる保証をあたえられた弟子たちは、おどりあがって喜び、お礼をもうしあげるとともに、憍陳如(きょうじんにょ)が一同を代表して、いままでの段階の智慧を得ただけで満足していたまちがいを、つぎのような譬え話によって告白します。

 「ある貧乏な人が、親友をたよってやってきました。親友は酒さかなをだして手厚くもてなしてくれましたので、その人はすっかり酔っぱらい、いつのまにか眠ってしまいました。
 ところが、その親友は、急に公用で出かけなければならなくなりました。寝ている友だちを起こすのも気の毒だとおもい、その人のために、はかりしれないほどの値うちのある宝石を着物の裏に縫いつけておいて出かけたのです。
 目がさめたその人は、親友が長い出張に出かけたと知り、しかたなく立ち去りましたが、あいかわらずの貧乏ぐらしで、ついに放浪の生活にはいりました。そして、衣食のためにたいへんな苦労をし、ほんのすこしでも収入があれば、それで満足するという状態でした。
 ずいぶんたってから、その人は、むかしの親友と道でバッタリ出会いました。親友はあいもかわらぬそのあわれなすがたを見て、『なんという愚かなことだ。わたしは君が安楽に暮らせるようにとおもって、着物の裏に高価な宝石を縫いつけておいたのに』といいます。
 そして、あっけにとられている友だちの垢じみた衿の裏からその宝石をとりだしてやり、『さあ、これを売って、なんでも必要なものを買いなさい。なに不足ない生活ができるよ』というのでした」

 この譬え話をした憍陳如(きょうじんにょ)は、「仏さまも、この親友のようなお方でございます。仏さまがまだ菩薩であられたころ、わたくしたちに『だれにも一様に仏性(はかりしれぬ値うちのある宝石)がそなわっているのだから、修行して仏の悟りをひらくように……』と教えてくださったのですが、わたくしたちの心は眠りこけていて、その真意をつかむことができませんでした。そして、ただ煩悩を除くことができただけで、それを悟りだとおもいこんでおりました。しかし、心の底にはほんとうの仏の悟りを求める心が残っていたのでございましょう。なんとなく、もの足りない感じはいたしておりました。いま、世尊は、わたくしどもの目をハッキリ覚まさせてくださいました。いまこそわたくしどもは、菩薩です。これから菩薩としての修行を積み世の人のためにつくしていけば、ついには仏になれるのだということがわかりました。こんなありがたいことはございません」と、心からお礼をもうしあげて、この品は終わりとなります。

人間は自分の本質を知らない
 仏性には〈仏になりうる可能性〉という意味と、〈仏そのもの〉という意味とがあります。前者は、どのような人であっても努力次第で、いつかは必ず仏となることができるということで、仏性ということを修行という面からとらえた意味です。後者は、すべての人の本質は仏の本性そのものであるということで、仏性ということをその本質からとらえた意味です。

 われわれは、みんな、こういう意味の仏性をもっているのですが、なかなかそれを自覚できません。なぜかといえば、「衣食に追われてあくせく働き、欲望を追って右往左往しているこの身、この心が自分なのだ」と、すっかりおもいこんでいるからです。この話のなかの貧乏な人が、そういったわれわれ凡夫のすがたなのです。

 金持ちの友人すなわち久遠の本仏は、どんな凡夫にも仏性という尊い宝石をちゃんとあたえてくださっているのに、われわれ凡夫は、欲望の満足のみを追い求めていますので、なかなかそれに気がつきません。それゆえ、いっこうに救われず、あくせくと苦の人生を送っているのです。

お釈迦さまの教えではじめてわかる
 ところが、この世にあらわれた仏であられるお釈迦さまが、「すべての人間には平等な仏性がある(着物の裏に無価の宝珠をもっている)のだよ」と教えてくださって、はじめてわれわれはそれに気がつきました。それに気がついた瞬間、心がひろびろとなり、明るくなり、自由自在になり、これからさきの人生に大きな自信がついてきたのです。

すでに救われているのだ
 つまり、この譬えには、「われわれは、ほんとうはすでに救われているのだ。われわれの本質は、久遠の本仏と一体の、自由自在な仏性なのだ。その事実を知らないために、苦の人生をさまよっているのだ。だから、救われるのは、なにもむずかしいことではない。自分の本質が仏性であること、つまり、はじめから救われているのだということを真に自覚しさえすればそれでいいのだ」という教えがのべられているわけです。