妙法蓮華経 化城諭品第七

 《譬諭品》《信解品》《薬草諭品》では、主として譬えによって仏と仏法のすがたと、はたらきが示されましたが、それでもよくわからない人のために、この《化城諭品》から《授学無学人記品第九》までには、主として過去世からの因縁をお説きになるのです。

 《化城諭品》には、仏弟子たちの現世における修行をはげまし、未来世における成仏を確信させるために、過去世から仏さまと深い因縁でつながれていることをお説きになるのですが、それはつまり、仏法が永久不変なこと、すべての衆生は仏性をもつものであること、したがって、すべての衆生がいつかは仏の境地にたっすることができるものであることを教えられているのです。

大通智勝如来の故事
 まず、はるかなおおむかし、われわれの頭では考えられぬほどのおおむかしに、大通智勝如来という仏さまがおられたことから、お話ははじまります。その仏さまがまだ出家されるまえはある国の王子で、すでに十六人のお子さまがありましたが、長子を智積といいました。智積とその弟たちは、自分たちが小さいころ出家された父が、遠い国で長いあいだ修行されたのち仏の悟りを得られたことを聞いて、自分たちも父上のもとで修行しようと決心し、母や叔母などが涙のうちに見送るなかを出家していくのです。そうすると、その祖父すなわち大通智勝仏の父にあたる徳の高い王様も、おおぜいの大臣や人民たちをひきつれて、大通智勝仏のところへまいります。

 そして、父の王は「仏さまは、もとはわれわれといっしょに生活された凡夫でしたのに、衆生を救うためにかぎりない年月修行をかさねられ、ここに仏となられました。それを拝しますと、われわれも仏になれる可能性のあることがわかりまして、これほどうれしいことはございません。どうかわれわれのために法をお説きください」とお願いします。つづいて十六人の王子たちも、熱心にお願いするのです。

 すると、大通智勝仏は、そこに集まっていたおおぜいの人たちに、「この十六人の菩薩沙弥たちは、過去世からおおくの仏を供養し、そのもとで修行し、いつも〈妙法蓮華〉という教えを衆生に説いて無数の人びとを教化しました。その人びとは、一度だけの人生ではなく、なんど生まれ変わっても自分を教化してくださった菩薩といっしょに生まれ、その教えを聞いて、すっかり信解するようになりました」と説かれたのです。

娑婆世界の仏釈迦牟尼如来
 以上のようなむかしのお話をなさったお釈迦さまは、あらたまった口調で、「みなさん、いまだいじなことを話しますから、しっかり聞くのですよ。その十六人の菩薩は、のちに仏となって、現在でも十方の国土で法を説いておられるのです」とおおせられ、その仏さまの名と、教化を受けもっておられる国土の名をあげられるのですが、その十六番目がご自分すなわち釈迦牟尼仏であり、娑婆国土で悟りをひらき、娑婆国土の教化を受けもっておられるということと、過去世に〈妙法蓮華〉の教えによって教化した衆生たちこそ、いまのお弟子たちおよび未来世の信者たち(つまり現在のわれわれ)にほかならないことを、お明かしになります。

 そして、つぎのようにお説きになるのです。「みなさん。仏(人間としての仏)は、いつまでもこの世に存在するものではありません。すっかり自分の教えを説いてしまえば、しばらくこの世から離れるものですが、その際に、おおぜいの人たちが仏の教えにたいする信解が固く、人間平等の真理がよくわかり、心がしっかり決定しているようであれば、この〈妙法蓮華〉の教えを説いてあげるのです。過去世でもそうしたように、現世でもこうしていま説きつつあるのです」

 「世間に、真の悟りを得る道が二つあるものではありません。ただ一つ〈妙法蓮華〉の教えがあるのみです。しかし、如来の方便(指導の実際的手段)は、深く衆生の性質や機根を知り分けて行なわれるのです。まだ五官の欲にとらわれて、みずから苦しみを招いている人もいますので、そういう人たちのために、とりあえず迷いを除いて、心に安心を得るようにみちびいてあげるのです。このことを、譬え話で説明してみましょう」

 ここで法華七諭の第四である、〈化城宝処の譬え〉が説かれます。つぎのような話です。

化城宝処の譬え
 あるところに、ひじょうに長い、けわしい、困難な道がありました。そこは人里遠く離れており、わるい獣などが出没して、まことに恐ろしい場所です。ところが、このけわしい道を、珍しい宝を求めて旅をつづける、おおぜいの人がいました。一行のなかに、ひとりのリーダーがいて、その人は智慧もすぐれ、ものごとに明るく、この道がどうなっているかを、先の先までよく知っていました。

 一行のなかには、足弱な人もあれば、根気のない人もいて、途中ですっかり疲れはててしまい、リーダーにむかって「わたくしたちは、くたびれきってしまいました。それに、この道はなんだか恐ろしくて、もうこれ以上いく気にはなれません。先はまだ遠いことですし、いまから引き返したいのです」といいだしました。

 このリーダーは、時と場合に応じて適切に人びとをみちびく方法(方便)をよく知っていましたので、心のなかで──ああ、かわいそうな人たちだ。どうして、もうひと息の所にある大きな宝をあきらめて、引き返そうとするのだろう。もうすこしのしんぼうなのに──とおもい、方便の力をもって、そのけわしい道の半ばよりちょっとむこうに、ひとつの大きな城を幻としてあらわしたのです。そして、一同にむかって、「みなさん。もう恐れることはありません。また、引き返すこともありませんよ。あの城のなかにはいってゆっくりしなさい。あのなかへはいりさえすれば、すっかり安穏になります」といいました。

 みんなは大喜びでそのなかにはいって休息しました。しばらくして、疲れがすっかり癒えたのを見すましたリーダーは、その幻の城を消してしまい、「さあ、ゆきましょう。宝のある場所はもうすぐそこです。いままでここにあった城は、じつはわたしが仮りにつくったものです。ここでひと休みして、心をとりなおさせるための方便だったのです」こうして一同をはげまし、さらに宝のある場所へとみちびきつづけたのでした。

人生の意義を知れ
この譬えの表面の意味は、まえにあった〈三車火宅の譬え〉や〈長者窮子の譬え〉とおなじで、〈仏の教えはただ一仏乗〉ということと〈方便もまた真実〉という二大原理にほかなりませんが、たんなるくりかえしではなく、またちがったニュアンス(微妙な陰影)があります。どんなニュアンスかといえば、ここには〈創造あっての生きがい〉という教えが暗示され、それにむかって再出発しよう──という激励の気持がこめられているのです。

 長いけわしい道というのは、われわれの人生の旅路です。その旅路には、つらいことや苦しいことがつぎつぎに起こります。だれでも、それを克服しようと努力するのですが、なかなかおもうようにゆきません。すると、たいていの人があきらめをもつようになります。

 善良な人ならば、「あがいてみてもしようがないから、なんとか苦しみと苦しみのあいだをすり抜けながら、できるだけ楽しく一生を送ろう」などと、消極的な考えかたにおちいるでしょう。すなわち、進歩への努力をあきらめ、安易な生活態度へ逃避してしまうのです。一方、道徳観念のうすい人なら、「どんなことでもして、太く短く一生を送ろう」と考え、悪の世界へ踏みこんでしまうこともありましょう。

 その両方とも、人生のほんとうの意義を見失った人たちです。なぜなら、たえず進歩していくのが人間としての自然の道であり、正しい生きかたであるからです。それなのに、人生苦にうち負けて、その自然の道、正しい生きかたを忘れ、途中で立ち止まったり、あとへ引き返そうとするのは、人間としての価値をみずから投げ捨てることになるのです。

安らかな人生のために
 そこでお釈迦さまは、そういう人たちのために、──ちょっと待ちなさい。こうすれば、苦しみも悩みもない安らかな人生が送れるのだよ──と、ひとつの境地を教えてくださいました。

 それは、「目の前にあらわれているいろいろな現象は仮りのあらわれにすぎないのだから、それにとらわれて心をふりまわされないようにすれば、つねに安らかな心境におられるのだ」という教えです。一口でいえば、〈現象にふりまわされるな〉ということです。

 まことにすばらしい教えで、だれの心にも、「なるほど。そういうものの見かたに徹すれば、これから先は安らかな人生が送れそうだ」という希望が湧いてきます。この譬え話のなかのリーダーが、ゆくてに大きな城をあらわして、「あそこへ行って休みなさい」といったのは、こういう境地であり、こういう意味にほかならないのです。

創造と調和の生活
 ところが、その心境にたっしてホッとしていると、リーダーはやがてその城を消してしまい、「もうすこし先に、ほんとうの人間らしい生きかたがあるのだよ」と、究極の理想を示しました。人びとは、一時はびっくりしましたが、すぐに気をとりなおして、新しい行進へと出発するのです。

 それでは、その〈ほんとうの人間らしい生きかた〉とはなんでしょうか。それは〈創造と調和の生活〉ということです。

 さきに、人びとは、人生苦からのがれるためには現象にふりまわされるなと教えられ、なんとかその境地にたっして心の安らぎを得ました。しかし、その境地も、まだ悟りにたっする途中の段階にすぎません。なぜならば、自分たち仏道修行者だけはさいわい人生苦からのがれることができても、世間のおおぜいの人たちはあいかわらず苦しみのなかにいるのです。それを横目に見ながら、自分たちだけが安らかな境地にいるのは、これまた一種の逃避であり、独善的な利己主義です。ですから、まだまだほんとうの悟りとはいえないわけです。みんなといっしょに苦しみながら、みんなといっしょにしあわせになるように努力することこそ、ほんとうの人間らしい生きかたなのです。そこで、いちおうのホッとした気持などはかなぐり捨て、幻の城を出て、新しい苦労の道へ再出発しなければならないのです。

 しかし、これからの苦労の道は、まえにたどっていた苦労の道とおなじ道のように見えても、苦労の次元がまったくちがうのです。したがって、その価値にも天地ほどのちがいがあるのです。なぜならば、これからの苦労は、ひとをしあわせにする菩薩の苦労だからです。

 また、苦労しながらものごとを創造していくことこそ人生の意義であることを悟り、その苦労を楽しむ境地にまで、心が高まっているからです。

 こうして、人生の旅人であるわれわれひとりびとりが、自分の性格に応じ、才能に応じ、職業に応じて、〈自分をも、他人をも、世の中全体をも、しあわせにするものごと〉をたえず創造していけば、それらの創造のはたらきは、かならず大きなところで一種の調和をつくりだすものです。そのような創造と調和の状態こそが、人類究極の理想のすがた(この上ない宝もの)なのです。

十二因縁と結願の文
 この品には、この〈化城宝処の譬え〉のほかに、注目すべき教えがいろいろあります。なかでも、ここで〈十二因縁〉の教えをふたたびとりあげておられることと、もろもろの梵天王の唱えた偈のなかに〈願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん〉という、ほとんどすべての仏教信者がお勤めの結びに唱えるたいせつなことばがあることなど、忘れてならないことだとおもいます。